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2021年7月21日水曜日

「吾々は日本に於てこれに比すべき大仏を見ない」

 



余は実に之程の内なる深さと神秘とを示し得た仏教の芸術を他に知る場合がない。かかるものを作り得た作者の宗教的経験に対して余は限りない敬畏の状を禁じ得ないのである。嘗て 是程の僅かな線と単一な形とに於て、是程の複雑な美の深さを示し得たものが何處にあろう か。 〔・・・〕是等の宗教の力は悉く朝鮮固有の美を通して、残りなく示されている。 (柳宗悦「石仏寺の彫刻について」1919年)


朝鮮の藝術そのものが、それ自身の美において偉大である。どこに事えるべき他の大があったであろう。今日法隆寺や夢殿に残された百済の観音は、支那のどの作品に劣るであろう。またどの作品の模倣であり得よう。それらは日本の国宝と呼ばれるが、真に朝鮮の国宝とこそ呼ばれねばならぬ。またはここに慶州石仏寺の彫刻を撰んだとする。それはもとより唐代の作と関係があるにちがいない。しかし他に倣い他に事えた痕跡のみであろうか。そこには真に動かし得ない朝鮮固有の美があるではないか。私はその窟院を訪ねた日を忘れる事は出来ぬ。そこは朝鮮がいつも保有する深さと神秘との絶える事のない蔵庫である。(柳宗悦「朝鮮の友に贈る書」1920年)






今から三年前ーー1916年9月1日午前6時半、うららかな太陽の光が海を越えて、窟院の仏陀の顔に触れた時、私は彼の側に行んだのである。それは今も忘れ難い幸福な瞬間の追憶である。彼及び彼を囲繞する諸々の仏像が、その驚くべき晨の光によって、鮮かな影と流れる様な線とを示したのもその刹那であった。窟院の奥深くに佇む観音の彫像が、世にも稀な美しさに微笑んだのもその瞬間であった。ただこの晨の光によってのみ見られる彼女の横顔は実に今も私の呼吸を奪うのである。


私が語る窟院の位置は、鶏林〔朝鮮〕の南端、南には遥かに蔚山を、左には近く迎日湾を、前には白帆の浮かぶ海を隔たてて、遠く「日の出づる国」に対するのである。新羅の旧都、慶州からは四里半である。窟は海抜一千三百尺の吐含山の東面に建立する。この至宝は今を去る1168年前の作である。近くは人々によって石窟庵と言われ、古記録によれば明らかに石仏寺と言われた窟院である。(柳宗悦「石仏寺の彫刻について」1919年)






〔・・・〕私は今残る一つーーこの窟院の中央を占める仏陀の座像について語るべき順次に来たのである。しかし何人かよくこの彫刻に現れた彼の意味を語り得るであろう。語り得ない事実にこそ、この彫像の美は在るのである。人はここに錯雑した何らの手法をも見ない。彼を被う衣の線も、ただ僅かに数え得るばかりである。坐禅する彼は胸を正しくし、顔を前に向け、一手は折って胸下に置き一手はただ垂れて前に在るのである。ただこれが作者の加えた外なる形である。彼は何らの誇張をも複雑をも外に装うのではない。しかし実に何ものもない至純のその中から作者は仏陀としての至高と威厳とを確かに捕え確かに表現し得たのである。すべての意味はその端然たる容貌に集まる。彼は寂然として黙し口は閉じ眼は休む如くである。彼は幽暗な静寂なこの窟院の中に座って正に深い禅定に没しつつあるのである。それは全てを語る沈黙の瞬間である。すべてが動く静慮の刹那である。一切を含む無の境である。何の真か何の美かこの刹那を越えるであろう。彼の顔は異常な美しさと深さとに輝くではないか。私は多くの仏陀の座像を見た。しかしこれこそは神秘にゆらぐ永遠の一つであろう。私はこの一座像に於て朝鮮がかつて味わい得た仏教の深大であるべきを信じるのである。かかる作に於ては宗教も芸術も一つである。人は美に真を味わい、真に美を楽しむのである。

吾々は日本に於てこれに比すべき大仏を見ない。鎌倉の大仏は古来美貌を以て知られているが、美に於ても威厳に於ても遠くこの一つには及ばないのである。(柳宗悦「石仏寺の彫刻について」1919年)





近年かかる状態の石仏寺を修復したのは総督府の仕事であった。この重修は大正二年十月に始り同四年八月竣成したのである。出来得る限り解体工事を行って位置を正し石材を補充し外面はコンクリートによって永久の保存を期したのである。この案には関野博士らも親しく関与され、主として飯島技師監督の下に工事を行ったのである。この重修に於て、追加されたものは図中の番外EX.29 EX.30の両金剛であって、西面して建てられたのである。しかしこれよりも一層大胆な追加はこの窟外の周囲の石垣である。

(私はこれを見た時その没趣味な行いに一驚を喫したのである。何の理解あって、ほとんど墜道の入口ともまちがえられるかかるものを建設したのであるか、私はこれが窟院の修理ではなく新たな毀損であるとより考えられないのである。技師はよし科学的な修理をなし得たとしても、何らの芸術的修理をも知らなかった様である。窟内の諸像と、追加された石垣と対比する時、その間に何の芸術的統一があろうか。私は特にかかる傑作の修理には芸術的手法を根本とすべきだと考えるのである。出来得る事ならあの石垣を破壊してその重修を朝鮮人自らにさせたいものである。私は朝鮮に於てそれらの彫刻ほど私を喜ばせたものもなく、またその石垣ほど私を不愉快にさせたものもない。石仏芸術の美と科学の醜とが相並んでいる。古代の人は何の科学をすら持たなかったが、寺の如き建築に於て、自然の理法を驚くべき美に結びつけたのである。窟院は幸にも倭寇の難を逃れた。しかし今日新な侮辱を修理という名のもとに得たのである。私はすべてに統一あるあの窟院が、その醜い重修によって、新たな不純を追加された事を嘆かないわけにはゆかないのである。もしあの修理が単に天蓋を被い、各石壁の位置を正しくしたに止まったなら、どれだけ美わしかったであろう。私は破損せられたままの当時の写真と修理後の写真とを見て、芸術を知らぬ罪の深い科学の行いを憎まざるを得ないのである) (柳宗悦「石仏寺の彫刻について」1919年)









ひと月まえ私は韓国慶州に行って、お辞儀したくなるほど美しい遺物や塔や石仏を眺めてきた。古墳の石の天井に二度も頭をぶつけ、同行者の二倍も忙しく駆けまわって、見るものを頭へつめこんできた。かつてこの世から立ち去って土中に眠り自然に帰ったものが、いま再び洗われて白日に曝されていた。古寺への道は山の頂点まで整備されて赤松の美しい森にかこまれ、あいだには白楊、楊柳、アカシヤ、ムクゲなどが新しく植えられて栗鼠が遊んでいた。一片の紙屑も吸殻も見られず、礼儀正しい人々が歩いていた。 私はホテルの部屋でひとりになったとき、ある者に向かって「そのまま眠れ」と心の奥に呟いた。ひとつの離れがたい自分自身の想いがあった。いずれは処理できるとして、今はどうしても処理できないものであった。本当は外に在るものであるが、しかし今は内に在るものであった。このときも私は故郷の沼を思い出した。しかし何時ものように、ただ思い出しただけでどうなるものでもなかった。(藤枝静男「庭の生きものたち」初出「群像」昭和五十二年十一月号『悲しいだけ』所収)