始まりを有したものはすべていつか終わりを迎えるだろう。逆に始まりを持たなかったものは終わることもないだろう。ところでキリスト教やユダヤ教はそれぞれ始まりを有した。この地上に始まりの日付が知られていない宗教は自然宗教を除いてはただの一つも存在しない。故にこの宗教だけは今後も消滅しないだろうが、その他の宗教は消え去るだろう。(ディドロ『自然宗教で十分であること』1770年) |
ディドロってのは読んだことないのだが、ネット上で拾う限りでは、すばらしいこと言ってるね、自然宗教で十分だってよ。とすれば、日本人はすばらしいんじゃないかね |
私はかねてから「自然宗教」と「創唱宗教」という区別が日本人の宗教心を分析する上では有効だと考えている。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教のことである。〔・・・〕代表的な例は、キリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。これに対して、「自然宗教」とは、文字通り、いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教のことであり、「創唱宗教」のような教祖や経典、教団をもたない。 |
「自然宗教」は「創唱宗教」のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な教化手段を持っているといえるのであり、人々もそうした年中行事を繰り返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができたのである。そこでは、とりたてて特別の教義、つまり「創唱宗教」を選択する必要はなかった。ここに「創唱宗教」という意味での宗教には無関心で、「無宗教」を標榜してなんら疑わない理由がある。(阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』1996年) |
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阿満利麿氏は『日本人はなぜ無宗教なのか』(1996)の中で、宗教を創唱宗教と自然宗教に分類するという、宗教学の理論を援用して日本人の無宗教観を読み解いた。すなわち、現代の日本人は、特定の人物が特定の教義を唱え、それを信ずる人々が集まって成立する創唱宗教を好まない。一方、初詣や墓参などのように風俗や習慣となってしまった宗教は「宗教」でないと思いこむことで、自らの宗教を「無宗教」と呼んでいる。しかし、それは自然発生的に成立し、その創始者を特定することのできない自然宗教と呼ばれるものである。つまり、日本人は「無宗教という名の宗教」を持つ「自然宗教」の信者だというのである。たしかに、日本国内に多数存在するお寺は仏教のものであり、それは釈尊によって始められた創唱宗教である。しかし、我が国の仏教は「葬式仏教」とも称される特殊なものであり、それは「自然宗教」のもつ先祖崇拝や霊魂観に仏教の衣を着せたものにすぎないと評される。(木村文輝『現代日本における「宗教」の意味』2014年) |
「無宗教という名の宗教」ってのは、神は無意識的だってことだろうな |
無神論の真の公式 は「神は死んだ」ではなく、「神は無意識的」である。la véritable formule de l'athéisme n'est pas que « Dieu est mort »… la véritable formule de l'athéisme c'est que « Dieu est inconscient ». (ラカン, S11, 12 Février 1964) |
日本人の宗教はアニミズムだと言うが、フレイザーが言ってるように、アニミズムから超自然的信仰=多神教が生まれるのだから、多神教ということだな |
神性はある。つまり神々はある。だが神はない![Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年) |
私は多くの種類の神々があることを疑うことはできない[Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt.](ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente, PDF) |
ところで、日本人は理論的には「正しい道」を歩んできたのに、なんでケッタイなヤツばかり多いんだろ? |
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