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2021年7月28日水曜日

遠くからやってくるもの

 ああ、またやってきた、あの遠くのものが。

ミシェル・シュネデールによって繰り返される「遠くからやってくるもの」。


音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十七曲、あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PIANO SOLO』)


痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。


この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。


音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)



人それぞれ「遠くからやってくるもの」は異なる。肝腎なのはグールド のピアノの音でもシューマンの音楽自体でもない。


遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくれば、それは痛みをともなう。私の場合、4年ほど前にベルナルダ・フィンクのシューベルト『夜咲きすみれ』の最後の1分を聞いたときそれを最も強烈に感受した。➡︎ Bernarda Fink, Nachtviolen

10年ほど前のフォーレ遺作op 121のアンダンテ体験も強烈だった。




肝腎なのは、あの痛み[la douleur]である。



痛みは明らかに苦しみと対立する。痛みは、異者性・親密性・遠くにあるものの顔である。la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, […] de l'étrangeté, de l'intime, des lointains. (Michel Schneider,  La tombée du jour : Schumann)

最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある。le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. . (Michel Schneider,  La tombée du jour : Schumann)



あの遠くからやってきたもの、これがが享楽であり異者だ。


疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れる始める水準である。Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur,Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966

現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004



音楽をきいて同じ経験をした者は、最も具体的に享楽の姿を知ることができる。もちろんそれは音楽に限らない。私は音楽によって頻繁にそれが起こるというだけである。痛みが、遠くからやってくるようにであれば、それが享楽だ。


あの異者は固着、享楽の固着にかかわる。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung… Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年)


固着とは享楽の固着(リビドーの固着)、ラカンのリアルな対象a、遠い過去の身体の出来事だ。それが回帰する。


フロイトが固着と呼んだものそれは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. … la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, …elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011

分析経験の基盤、それは厳密にフロイトが固着と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, …précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



この異者の回帰が、厳密に、プルーストのいう《ひょっこりやってきておれの気分をそこねた異者[l'étranger qui venait me faire mal]》の回帰、要するにレミニサンスである。



私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。


je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé



ラカンは現実界のレミニサンスについてこう語っている。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscence」と呼ばれるものによって。Je considère que … le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. … Disons que c'est un forçage.  … c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976



トラウマとはフロイトの定義において身体の出来事である。



トラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用は、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。それは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie1939年)


これが、現実界の享楽の原点である、ーー《享楽は身体の出来事である[la jouissance est un événement de corps.]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011


不変の個性刻印 としての身体の出来事がレミニサンスするのだ。



トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 Fremdkörper のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こす。ヒステリー はほとんどの場合、レミニサンスに苦しむのである。


das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […]  der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


ーーフロイトはヒステリー研究から始めたのでこう言っているが、このレミニサンスは誰にでも起こる。固着を通した異者のレミニサンスは。


ここで重要なのは喜ばしいトラウマの回帰もあることである。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)


要するに《語りとしての自己史に統合されない「異物」》(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)ーー、これが回帰する。



この不変の個性刻印としての身体の出来事のレミニサンスは、ーー「厳密に」ーー、ニーチェの永遠回帰の主要な内実である。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)



享楽の固着の永遠回帰



話を少し前に戻そう。あの異者が「私でありながら私以上のもの」、「あなたのなかにあるあなた以上のもの」なのだ。


私でありながら私以上のもの[moi et plus que moi ](プルースト『ソドムとゴモラ』「心の間歇 intermittence du cœur1921年)

あなたの中にある何かあなた以上のもの、すなわち対象a quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a),」(ラカン, 11, 24 Juin 1964

異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である。[corps étranger,… le (a) dont il s'agit,… absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)



プルーストがいう「対象の鞘ではなく自身の内部にのびているもの」は、フロイトの異者である。



人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。


それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに[de la nature, de la société, de l'amour, de l'art lui-même]、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」)



ミシェル ・シュネデールのグールド論とシューマン論。あそこには、ニーチェ、フロイト、プルースト、ラカンを繋ぐための導きの糸がある。


……………


ニーチェはこう書いている。


偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。


Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!  


つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。


Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer1884年)


異郷にさすらっていたおのれの回帰、ーーこれこそ異者の永遠回帰でありレミニサンスである。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異者が内界にある自我の異郷部分である。


Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


だが異郷にさすらっていた異者とは、より具体的には何か。


究極的には初期幼児期に起こる自我分裂に伴う自我の片割れである。


欲動要求と現実の拒否のあいだに矛盾があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. 



われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. Der ganze Vorgang erscheint uns so sonderbar, weil wir die Synthese der Ichvorgänge für etwas Selbstverständliches halten. Aber wir haben offenbar darin unrecht. Die so außerordentlich wichtige synthetische Funktion des Ichs hat ihre besonderen Bedingungen und unterliegt einer ganzen Reihe von Störungen. (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


そしてこの片割れの別名を主体ーー斜線を引かれた主体$ーーとラカンは呼んだ。


ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている。Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  (Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)


自我分裂にともなって喪われた対象aとしての異者、これが斜線を引かれた主体$であり、ニーチェのいう《ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」[mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle].  》である。


ラカンは言っている、対象aは大他者のトポロジー的構造であり、対象aは主体自体だと。《対象aは主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている。》(S16)  [Lacan peut dire du petit a qu'il est la structure topologique du grand Autre, et dire ensuite que le petit a est le sujet lui-même… « petit a essentiel au sujet, et marqué de cette étrangeté  »(S16, 14  Mai  1969) (J.-A. Miller, UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE, 2006/3 )

異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)


………………


最後に、フロイトはニーチェについてこう言っていることを付け加えておこう。


ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden."  (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, […] dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung1925年)