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2021年7月4日日曜日

男は愛するとき欲望しない。欲望するとき愛しえない


(多くの男は)愛するとき欲望しない。欲望するとき愛しえない[Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben.](フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)


フロイトの目眩く形式化がある、《男たちは愛する場では欲望しない。そして欲望する場では愛しえない》。われわれは言うことができる、これが愛の裂け目の真の定式だと。cette formulation fulgurante de Freud : « Là où ils aiment, ils ne désirent pas, et là où ils désirent, ils ne peuvent aimer. » On peut dire que c'est là vraiment qu'est donné la formule du clivage de l'amour   (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 22 MARS 1989 )


《愛されると同時に欲望される[être désirée en même temps qu'aimée]》(Lacan, E694, 1958)、これが女たちの願いである。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus 2010)

フロイトが示した女性の対象選択は愛と欲望の一致であり、男性の対象選択は、愛と欲望の分離である。ラカンはこれを「ファルスの意味作用」で取り上げた。


だが「愛される」というフレーズを強調しよう。「愛される」とは女性の愛の被愛妄想的多様性を示している。愛されるために愛することが、おそらく女たちの座右の銘である(ここで思い出そう、フロイトが見事に注釈したことを。捨てられることに対する女性の感受性の強さを)(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus, 2010)



いやあ、これがホントだったら男女関係ってのは不幸だねえ・・・

で、キミはどう思うんだい?



フロイトの三つの「性愛の心理学への寄与 Beiträge zur Psychologie des Liebeslebens」論文、すなわち『男性における対象選択のある特殊な型について Uber einen besonderen Typus der Objektwahl beim Manne」(1910)、『性愛生活が誰からも貶められることについて Uber die allgemeinste Erniedrigung des Liebeslebens』(1912)、『処女性のタブー Das Tabu der Virginitat』(1918)。


この三つは、私の見解では、真のラカニアンのテキストである。ラカンは自ら、ラカニアンではなくフロイディアンだと言っている。そしてフロイトは自らをラカニアンではないとは決して言っていない・・・。私は心から信じている。この三つのテキストには真にラカニアン的フロイトがいる、と。この諸テキストは、ラカンのテキストの再読・再考を促してくれる。…それは「ひとりのラカン」を超えてゆくためにフロイトを読むことを意味する、「もうひとりののラカン」の助けを以て。〔・・・〕


「性愛の心理学への寄与」論文の重要性は何か? フロイトにとっての問いは、男と女は互いにいかに関係するのかという、皆が実際に熟考している問いである。その意味は、男女の性関係を考える試み、その困難・その袋小路に思いをめぐらす試みである。(ジャック=アラン・ミレール,  A New Kind of Love)



女というのは愛の対象としてはタブーなんだよ、

オチンチンがいうこときかないんだ。

だから欲望の対象に劣化させて

ポテンツ回復させないとな、

そうしないと人類滅んじゃうよ。



フロイトの言明がある、「われわれはほとんど言いうる、すべての女はタブーだと[beinahe könnte man sagen, das Weib sei im ganzen tabu]。この一般化された言明、つまり、女たちの一般化タブーがある[il y a un tabou général de la femme]とは、ラカンの「性関係はない[Il n'y a pas de rapport sexuel ]への道への一里塚だ。フロイトは原始人に属する特徴としてそう言った。


だが忘れてはならない。太古の[archaïque]という語をフロイトは使っていることを。太古の分析 [l'analyse à l'archaïque]とは、厳密にわれわれの根の分析であることを。原点としては、われわれはみな原始人である[nous sommes tous des primitifs.]  (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 29 MARS 1989)


ーー《「太古の遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、普通はただエスのことを考えている[Wenn wir von »archaischer Erbschaft«sprechen, denken wir gewöhnlich nur an das Es ]》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)



太古の超自我の母なる起源 [Origine maternelle du Surmoi archaïque], (Lacan, LES COMPLEXES FAMILIAUX, 1938)

一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (ラカン, S17, 18 Février 1970)

問題となっている女というものは神の別の名である[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu,](Lacan, S23, 18 Novembre 1975)



やっぱり神とはヤルわけいかないだろ

一切女人是我母(一切の女人これ我が母なり)(弘法大師空海『教王経開題』)


男児は、性行為の醜い規範から両親を例外として要求する疑いを抱き続けることができなくなったとき、彼は皮肉な正しさで、母親と売春婦の違いはそれほど大きくなく、基本的には母親がそうなのだと自分に言い聞かせるようになる。……娼婦愛…娼婦のような女を愛する条件はマザーコンプレクスに由来するのである。

Er vergißt es der Mutter nicht und betrachtet es im Lichte einer Untreue, daß sie die Gunst des sexuellen Verkehres nicht ihm, sondern dem Vater geschenkt hat. (…) 

Dirnenliebe…die Bedingung (Liebesbedingung) der Dirnenhaftigkeit der Geliebten sich direkt aus dem Mutterkomplex ableitet. (フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年、摘要)




カミさんとだって難しいよ、女のほうはもっと厄介らしいけど。


古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。他方、私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…


この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(Jacques-Alain Miller, The Axiom of the Fantasm)