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2021年7月6日火曜日

「社会学は何もできない」

 

池内紀)去年だったかな。『朝日新聞』の書評委員会で、書名をずっと読み上げるでしょう。それで『社会学は何ができるか』という書名が読み上げられたとき、須賀さんがはっきり通る声で、すぐ合いの手を入れた。「何もできない」って(笑)。ぼくもずっとそう思っていたんだけれども勇気がなかったからいえなかった。前に社会学の先生が二人おられたし……(笑)(『追悼特集 須賀敦子』河出書房新社、1998年)


長年ひそかに愛を捧げている須賀敦子がこう言ったらしいけどさ

ま、でも「社会学は何もできない」なんて極論は言わないよ、ボクは。


でも社会学者が「アンケートによれば云々」というのはな


精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』1990年)


仮に厳密な科学的統計であれね


いつもニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ。Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


連中はたぶん「真理」のつもりでいるんだろうがね


経験科学の真理にかんしては、「確証可能性」をあげる論理実証主義者(カルナップ)と「反証可能性」をとなえるポパーとのあいだに、有名な論争があった。ポパーの考えでは、科学法則はすべて帰納的な支持をもつ仮説でしかなく、観察によってそれと衝突する「否定的データ」が発見されると、その例を肯定的事例として証明できるような新しい包括的な理論が設定され、理論の転換がおこる。したがって、「否定的データ」の発見が科学の進歩や発展の原動力である。


ところが、T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)


とくに男女関係をめぐるアンケート調査なんてのはさ

そんなの信用できる筈あるかい


厳密な統計調査なら無意識が現れる

とかいう社会学者がいるのを知らないわけじゃないけど

せいぜい抑圧された無意識だよ

原無意識はまったくムリだな



つまり「嘘という真理」ぐらいはわかるかもな

要するに巷間の阿呆向けだよ


浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)


というわけで、ーーセクシャリティに限って言うがーー、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄「菊池寛」)のたぐいだろ? 「ほどよく聡明な=凡庸な」社会学者ってのは。フェミでもアンチフェミでも似たようなもんさ、そのマヌケぶりは。


ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec, Sexual Difference, 2012年)

驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである。(ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe「ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 」2005年)