まず仏女流分析家第一人者のコレット・ソレールを引用しよう。
愛の結びつきを維持するための唯一のものは、固有の症状である[Restent alors seulement les symptômes particuliers pour sustenter les liens d'amour. ]〔・・・〕
われわれの「文化のなかの居心地の悪さ」には二つの要素がある。一つは「享楽は関係性を構築しない」という事実である。これは現実界的条件であり、われわれの時代の言説とは関係がない[Il y a donc deux composants du malaise. L'un qui tient au fait que la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle qui ne doit rien au discours du temps]〔・・・〕
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次の前提を見失わないようにしよう。ラカンが構築した四つの言説の各々は、主人と奴隷、教師と生徒、ヒステリーと主人、分析家と分析主体(患者)である。これは歴史において証明されている。いかに多くの男女のカップルが、この四つの関係を元に結びついてきたかを[Ne perdons pas de vue que tous les discours, des quatre que Lacan a construits, forgent chacun un couple, je l'ai dit : maître-esclave, professeur-élève, hystérique-maître, analyste-analysant, et on peut vérifier dans l'histoire combien le couple homme-femme a été] ( Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
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このコレット・ソレールが示している愛の結びつきとしての四つの症状、「主人と奴隷」、「教師と生徒」、「ヒステリーと主人」、「分析家と分析主体」は、ラカンの四つの言説ーーそれぞれ主人の言説、大学人の言語(知の言説)、ヒステリー の言説、分析家の言説ーーのことだが、かつてはこうだったと言っているが、ま、いまでも穏やかな形ではあるにしろ残存してるんじゃないかな。
①が主人と奴隷であり、より穏やかな言い方をすれば「主人と家政婦」だ。 ②が教師と生徒であり、「教える者と学ぶ者」だ。③が分析家と分析主体であり、「無言で聞き入る者と欲望を語る者」だ。 ④がヒステリーと主人であり、「不平不満をいう者とそれに堪えたりへこんだりする者」だ。
結婚生活であるなら、①②が旦那の言説、③④が嫁さんの言説だ。だいたいどれかの関係だよ。現在は④のヒステリーの言説、あるいは③の分析家の言説が多くなっているのかも知れないけど。
ヒステリーの言説は典型的には次のものだ。
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「ヒステリー女が欲するものは何か? ……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツ(ルツのモデル:アルチュセール)に言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。 (ソレルス『女たち』)
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ーーボクの家なんてこれじゃないかな、夫婦生活を継続させるためには嫁さんに支配される他ないね・・・
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で、分析家の言説は典型的には次のものだろうよ。
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ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。
ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? 〔・・・〕
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会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。
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ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、自分の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。
この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)
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これも今でもそれなりにあるんじゃないかな、どうだい、そこのきみの「理想の」夫婦生活は、《妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれず》じゃないかい?
①の「主人と家政婦」、②の「教える者と学ぶ者」は少なくなっているにせよ、③④はふんだんにあるよ、まだまだ。
それとも最近の若い人は対等の愛の関係っていうわけかい? これこそ一番気をつけてなくちゃいけないぜ。
愛は拷問または外科手術にとても似ている[l'amour ressemblait fort à une torture ou à une opération chirurgicale]ということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。だがこの考えは、最も過酷な形で展開しうる。たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは死刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である[ c'est l'opérateur ou le bourreau ; l’autre, c'est le sujet, la victime.](ボードレール「火箭 Fusées」)
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対等の関係っていうこうなるのは必然だね、ちがうかい?
で、話を戻せば(?)、ラカンは1970年前後に四つの言説から、資本の言説への移行を示唆した。
ラカンはこの内実についてたいしたことは言っていないので、現代ラカン派では種々の解釈がある(参照)。
ここでは冒頭に掲げたコレット・ソレールの解釈を続けよう。
資本の言説はカップルを創造しない[Le discours capitaliste, lui, ne forge pas de couple.]〔・・・〕
資本の言説によって創造される唯一の結びつきは、社会的な結びつきでは殆どない。…英語圏のひとびとが使用する "an affair" という表現は、実に症候的である(affair とは、何よりも先ず、ビジネスのことであり、ラブアフェアーとは、愛のビジネスである)。Le seul lien forgé par le discours capitaliste, c'est celui, fort peu social. …Il est d'ailleurs bien symptomatique qu'en anglais une aventure soit an affair. 〔・・・〕
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資本の言説は、愛の事柄について何も語らない。人々が《アフェアーles affaires》と呼ぶもの、つまり生産と消費のみについてのみ語る。以前の言説(主人の言説内部の四つの言説)とは異なり、現実界的非関係を補填しないのである。Ce discours ne dit rien sur les choses de l'amour, il ne dit que sur ce que l'on appelle « les affaires », celles de la production-consommation. Il ne supplée donc pas au non-rapport réel et le laisse à découvert, contrairement aux précédents.
…つまり(われわれの時代は)性的非関係の孤独と気紛れの成り行きにかつてなくなすがままになっている。les laissant plus exposés que jamais aux conséquences de solitude et de précarité du non-rapport sexuel. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
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最近は「愛のビジネス」の時代なんだろうよ、例えば「婚活」なんて事実上、ビジネス用語だろうからな。
これよりは女主導のヒステリーの言説やら分析家の言説に耐えたほうがいいよ。男主導の「主人と家政婦」「教える者と学ぶ者」の復活なんて僥倖でもないかぎりほとんどありえないだろうからさ。もちろんボードレールのいう「死刑執行人の言説」を選択する手もあるけどさ。これは夫婦関係に入ったらすぐ移行するだろうな、ヒステリーか分析家の言説に。
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