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2021年8月19日木曜日

見出された嘘

 


うそは人間において本質的なものである。うそは人間においておそらく快楽の追及とおなじほど大きな役割を演じているだろう、しかも、うそは快楽の追及に従属するのである。人は自分の快楽をまもるためにうそをつく。人は生涯にわたってうそをつく、人は自分を愛してくれる人たちにさえうそをつく、そういう人たちであればこそとりわけうそをつく、おそらくそういう人たちにだけうそをつくだろう。われわれにとっては、正直いって、そういう人たちだけが、自分の快楽をまもるためにおそろしいのであり、しかもそういう人たちだけから、尊敬を受けることが望ましいのである。Le mensonge est essentiel à l'humanité. Il y joue peut-être un aussi grand rôle que la recherche du plaisir, et d'ailleurs, est commandé par cette recherche. On ment pour protéger son plaisir ou son honneur si la divulgation du plaisir est contraire à l'honneur. On ment toute sa vie, même surtout, peut-être seulement, à ceux qui nous aiment. Ceux-là seuls, en effet, nous font craindre pour notre plaisir et désirer leur estime. (プルースト「逃げさる女」)


プルーストの『失われた時を求めて』は、実に嘘[mensonge]という語が頻出する。今後半の巻をPDFで検索してみたら、「ソドムとゴモラ」24箇所、「囚われの女」91箇所、「逃げさる女」28箇所、「見出された時」21箇所だ。


前半の巻は少なかった気がするがな、と思っていたが、この際、さらに検索してみたら、そんなことはなく、「スワン家のほうへ」21箇所、「花咲く乙女たちのかげに」15箇所、「ゲルマントのほう」13箇所だ。


至高の嘘研究書だよ、あれは。「見出された嘘」と呼んでもよい小説だ。


人はどうして生きたいとねがう勇気がもてようか、どうして死なないための力をふるいたたせることができようか? 相手がつくうそによってしか愛がかきたてられない世界、われわれを苦しめた相手にその苦しみを鎮めてもらいたいという欲求のなかにしか愛が存在しない世界、そういう世界のなかで。comment a-t-on le courage de souhaiter vivre, comment peut- on faire un mouvement pour se préserver de la mort, dans un monde où l'amour n'est provoqué que par le mensonge et consiste seulement dans notre besoin de voir nos souffrances apaisées par l'être qui nous a fait souffrir ?  (プルースト「囚われの女」1923年)

人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである。ce n'est pas qu'à force de mentir aux autres, mais aussi de se mentir à soi-même, qu'on cesse de s'apercevoir qu'on ment, (プルースト「ソドムとゴモラ」1922年)


このプルーストは次のニーチェとピッタンコである。


最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である。Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall. (ニーチェ『反キリスト』第55番、1888年)


真の心理学者とは嘘研究家にならざるを得ないだろう。


もう沢山です! もう沢山です! もう我慢ができません。わるい空気です! わるい空気です! 理想が製造されるこの工場はーー真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます。Aber genug! genug! Ich halte es nicht mehr aus. Schlechte Luft! Schlechte Luft! Diese Werkstätte, wo man Ideale fabriziert - mich dünkt, sie stinkt vor lauter Lügen.(ニーチェ『道徳の系譜』第1論文、1887年)




ドゥルーズはこう書いている。


『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの[involontaire ]に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である[plus important que le philosophe, le poète]。〔・・・〕


『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。〔・・・〕


われわれは、無理に[contraints]、強制されて[forcés]、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の顔に嘘のシーニュ[un signe mensonger sur le visage de l'aimé]を読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい[Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant]。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)


哲学者や学者よりは詩人や芸術家のほうがまともだろうよ。嘘のつきようも少ないだろう。


でもニーチェはこう書いている。


詩人は嘘をつきずぎる。die Dichter lügen zuviel.…


詩人のうち、酒の偽造をしなかったものがあろうか。wer von uns Dichtern hätte nicht seinen Wein verfälscht?  …


感情のこもった興奮がやってくると、詩人たちはいつもうぬぼれる、自然が彼らに惚れ込んだのだと。kommen ihnen zärtliche Regungen, so meinen die Dichter immer, die Natur selber sei in sie verliebt: ・・・


ああ、なんとわたしは詩人に飽き飽きしていることだろう。Ach, wie bin ich der Dichter müde! …

まことに、詩人の精神そのものが孔雀のなかの孔雀であり、虚栄の海である。Wahrlich, ihr Geist selber ist der Pfau der Pfauen und ein Meer von Eitelkeit! 

 

観客を詩人の精神は欲する、たとえそれが水牛であろうと。――

Zuschauer will der Geist des Dichters: sollten's auch Büffel sein! -  


しかしこういう精神にわたしは飽きた。そしてわたしは見るのだ、この精神が自分自身に飽き飽きしてくるだろうことを。Aber dieses Geistes wurde ich müde: und ich sehe kommen, dass er seiner selber müde wird.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「詩人」1884)


ま、似たようなもんかもな。


とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。Enfin, je demanderai pardon pour m'être nourri de mensonge. Et allons.


ーーランボー「別れ Adieu