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2021年8月18日水曜日

恐ろしい女の悲鳴

 いやあ後悔するね、犀星のようにやっとけばよかったな、十八歳ぐらいまでに限っていっても、七、八人はいたんだがな


室生君! 

何といつても僕たちの強い記憶は、あの千九百何年かの、上野博覽會の時の交遊だつた。夏であつた。僕は毎日のやうに池の端の會場へ行き、夜になればイルミネーシヨンの輝やく不忍池畔で、龍宮の形をした場外の酒場へ飮みに行つた。


美しい夏の夜。あらゆる博覽會夜景の物音。空に聽える管絃樂。散りばめた電氣の裝飾。至る所のイルミネーシヨン。ああ僕は、今でもあの博覽會夜景の樂しさを忘れない。 

君はいつも酒に醉ひしれて、池の端の賣店をひやかし歩いた。そこには君の戀を感じた娘がゐた。露西亞人の混血兒で金髮に黄色い皮膚をした娘だつた。 


夏の或る暑い白晝、君はその娘を見ようとして、人氣のない池の端の賣店をたづねて行つた。灼きつくやうな午後の暑さに、地面は白く乾いてゐた。太陽は綿雲の下に蓋はれ、人影の散々としてゐる池の端の上空には、博覽會の輕氣球がさびしげに浮んで居た。 


君は十錢銀貨を固く握つて、賣店の前を幾度か往復した。そして娘の手から小布を受取らうとした時、突然、君の身體は崩れるやうに倒れてきた。俄然! 物の顛覆する音と一所に、二つの抱擁體が床の上に轉がつた。君の身體は娘の上に重なつてゐた。

「きやあツ!」 

といふ恐ろしい女の悲鳴と、驚くべき異常の騷動とが、夏の白晝の物倦い情景を一變させた。巡査が馳けつけた。群集があつまつてきた。だがその時君の姿は、ステツキをふりつつ鼠のやうに坂を馳けあがつてゐた。君の行爲は實に敏捷だつた。丁度君の崇拜してゐた、あの兇賊チグリスのやうに。


室生君! 

君の過去の逸話について、僕は書きたいことを澤山もつてる。君のさうしたあらゆる行爲と性情とは、僕にまでアナアキズムの第一原理を感じさせた。君は僕にとつての「英雄」だつた。何よりも人間の自然性がいかに「方則」の上に超越するかと言ふことを、君は僕に教へてくれた。僕はただ一日も、君なしに生活することのできない孤寂を感じた。君と一所に居る時ほど、人生が僕にとつて明るく見えることは無かつた。丁度あの昔の小姓等が、その主君へ特別な愛敬を捧げたやうに、男色の關係からではなく、僕は君を愛し崇拜した。君は僕にとつての愛人であり、そしてまた英雄であつた。 


室生君! 

だが僕はもう語るまい。なぜならば僕のすべての言語や追憶は、今の君を怒らせることを知つてるからだ。君がもしこの原稿をよんだならば、どんなに腹を立てて叫ぶかを想像する。「怪しからん奴だ。萩原は俺のゴシツプを書きやがる。」 


だが室生君。僕は決して君のゴシツプを書くのぢやない。ゴシツプの興味ならば、對手への中傷や、意地惡やもしくは單なる面白がりの惡戲にすぎないだらう。所が僕の意志は、丁度その正反對の所にあるのだ。僕は君を愛する故に、君の藝術の背後にある、君の眞人格を世に見せようとして之れを書くのだ。 (萩原朔太郎「室生犀星に與ふ」1928年)




いくら乙に澄ましていても人間ってのはこういうもんだよ、


人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか(室生犀星『随筆 女ひと』1955年)



成熟やらなんやらと嘘八百並べちゃいけないよ。成熟とはせいぜい衰えの美称に過ぎない。


主体の根源的パートナーは、享楽の喪失自体・喪われた対象から成っている[le partenaire fondamental du sujet est fait de sa propre perte de jouissance, son objet perdu.](ピエール-ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, Encore : belvédère sur la jouissance, 2013

主体はどこにあるのか? われわれは唯一、喪われた対象としての主体を見出しうる。より厳密に言えば、喪われた対象は主体の支柱である。


Où est le sujet ? On ne peut trouver le sujet que comme objet perdu. Plus précisément cet objet perdu est le support du sujet (ラカン, De la structure en tant qu'immixtion d'un Autre préalable à tout sujet possible, ーーintervention à l'Université Johns Hopkins, Baltimore, 1966



で、究極の喪われた対象ってなんだっけな。


木の股のあでやかなりし柳かな 凡兆


股の間にバウボを抱えた女とバウボなしの男が次の如くになるのは必然だね。



男の幸福は「われは欲する」である。女の幸福は「かれは欲する」ということである。[Das Glück des Mannes heisst: ich will. Das Glück des Weibes heisst: er will. ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)


男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く[Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.](フロイト『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit 1933年)

男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminineE7331960年)


無意識の現実[La réalité de l'inconscient はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部[divins détails]》によって基礎づけられているかを。


とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュとしての欲望の原因[causes du désir, qui sont comme des fétiches]が愛の過程を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、女性の愛の対象選択 le choix amoureux des femmes]の役割をはたします。


でも女性の愛の形式は、フェティシストというよりも被愛妄想的です[Mais la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。(Jacques-Alain Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)


女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである[Wir schreiben also der Weiblichkeit ein höheres Maß von Narzißmus zu, das noch ihre Objektwahl beeinflußt, so daß geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.]〔・・・〕


もし女性が父への結びつきに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプに則る[Ist das Mädchen in der Vaterbindung, also im Ödipuskomplex, verblieben, so wählt es nach dem Vatertypus.](フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)


ナルシシズムあるいは被愛妄想とは、仮に対象愛でも、愛されるために愛することだ。他方、フェティシズムとは愛されることとは関係なしに、自動的に対象選択することだ。例外はあるにしろ、ここに女と男の基本的相違がある。そして男女とも底部には、喪われた対象へのリアルな愛がある。