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2021年8月20日金曜日

自己破壊衝動の囁き(超自我の声)


中井久夫は、自己破壊性と他者破壊性」について次のように書いている。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



自己破壊性とは、フロイト用語ではマゾヒズムのことであり、中井久夫は当然それを視野に入れて記述している筈である。



マゾヒズムはその目標として自己破壊傾向をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。


Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)



マゾヒズムとサディズムの関係は、『マゾヒズムの経済論的問題』(1924年)における記述の用語も含めて図示すればこうなる。






中井久夫の記述に「解離された自己破壊衝動の囁き」とあったが、これは超自我の声と言い換えうる(中井久夫の「解離」とはフロイト語彙では「排除」のこと[参照])。


ラカンはこう言っている。


超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme(Lacan, S10, l6  janvier  1963)


この発言は、「超自我は自己破壊の原因」と言い換えることもできるし、「超自我は享楽の原因」とすることもできる。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[ la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976)


この文脈のなかで次の二文を読んでみよう。


超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる[la forme des impératifs interrompus du Surmoi …apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. ](ラカン, S10, 19 Juin 1963

超自我を除いて、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である、「享楽せよ!」と[Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »  Lacan, S20, 21 Novembre 1972


享楽とはもちろんフロイトの欲動の名である。


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)



フロイトの記述にあったように「原欲動=自己破壊欲動=死の欲動」であり、したがって「超自我の声は「自己破壊せよ!」と命令する」と言い換えうる。そして人は自己破壊を避けるために他者破壊に向かう。これが冒頭に引用した中井久夫が言っている《自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない》のメカニズムである。




この自己破壊を命令する超自我を人はみなもっている。


私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde](Jacques Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977



そして超自我の命令に伴う自己破壊欲動とその投射としての他者破壊欲動について、中井久夫は《今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか》としているが、現在、ツイッターでの書き込みにおいてしばしば見られる他者破壊衝動の底には、自己破壊衝動がある、ーー少なくともそう疑うべきである。



自己破壊性などと言わずにももっと大きく、マゾヒズムは受動性と取ることもできる。

マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


なんらかの形で受動的立場に陥った出来事を過去あるいはこの現在にもてば、その投射としての能動性が生まれる。その能動性はすぐさま他者加害性に移行する。


これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ「別れのワルツ」)

犠牲者は聖者ではない。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年)

過去の虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010)


容易に観察されるのは、セクシャリティの領域ばかりではなく、心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象[passiv empfangener Eindruck]が小児に能動的な反応を起こす傾向[Tendenz zu einer aktiven Reaktion]を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。


それは、小児に課された外界に対処する仕事[Bewältigungsarbeit an der Außenwelt]の一部であって、厄介な内容のために起こった印象の反復の試み[Wiederholung solcher Eindrücke bemüht]というところまでも導いてゆくかもしれない。

小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い[passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen 、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。


医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置[gewalttätige Prozedur を反復するのである。受動性への反抗と能動的役割の選択 Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle]は疑いない。(フロイト『女性の性愛』1931年)



フロイトはここで小児の例を挙げているが、成人においてもこれは当然起こる。例えばこの破廉恥な新自由主義の時代に運悪く「負け組」の立場に置かれれば、他者への加害衝動を抑えるのは困難である筈である。


今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009



自己破壊衝動の囁きあるいは超自我の命令の声の反転効果は、精神分析的観点から言えば、この今・この日々、多くの人々において実際に起こっている、ーーそう言っておこう。


……………


※付記



フロイトの超自我と自我理想(父の名)の関係は現在に至るまでほとんど理解されていない。例えばドゥルーズ「超自我=自我理想」という誤読のもとに、大きな影響を巷間に与えた「アンチオイディプス」を語ってしまっているにもかかわらず、いまだドゥルーズ研究者でその誤謬を鮮明化している者に行き当たったことがない。


むしろエディプスの失墜の時代にこそ自我理想の覆いがなくなり超自我が裸のまま露出するのだが。

エディプスの失墜において超自我は言う、「享楽せよ!」と[au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » (ラカン, S18, 16 Juin 1971



ラカンのボロメオの環を使ってそのポジションを示せば次のようになる。





要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 …それは超自我だ。

l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi  j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi.  Lacan, S24, 08 Février 1977

父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)


ーー理想自我[Idealich]と自我理想[Ich-Ideal]の相違についてはここでは触れない➡︎参照:「理想自我 i(a) 、自我理想 I(A) 、超自我 S(Ⱥ)


上図の超自我のポジションは、固着のポジション(自我とエスの境界表象の場)でもある。


フロイトは超自我の設置に伴い欲動の固着があると言っている。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939)


超自我は事実上、固着であり、この固着がフロイトにとっての原症状、ラカンにとってのサントーム(現実界の症状)である。


固着とは、フロイトが原症状と考えたものである[Fixations, which Freud considered to be primal symptoms,]( ポール・バーハウ&フレデリック・デクラーク Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq , Le Sinthome or the feminine way., 2002

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


したがって、超自我の核は事実上、リアルな症状なのである。