このブログを検索

2021年8月24日火曜日

「初恋の」


川上未映子さんがツイッターで「初恋の」という自らの短編小説を提供している。彼女は最近は世界的に売れっ子で、たとえば『夏物語』という長編がとてもよく読まれているそうだ。一度も彼女の作品を読んだことがない身なので、「初恋の」を昨晩読んでみた。とっても自然な文体でたちまち惹きつけられる。


冒頭は次のように始まる。


 初恋の恨みは、おそろしい。

 歩きながらそんなことを考えて、いや違う、恨みではない、恨みではないな、おそろしいとは思うけど、恨みというのではないよなと考えながら、ぼんやりする。

 こんなふうに、もう何十年も昔に起きた初恋のことを、ふと思いだすことがある。いや、それも違う。初恋そのものを思いだすのではなくて、なんというか、かたまりが、不意に現れるのだ。


 初恋のかたまり。それは、後悔でも懐かしさでも、甘酸っぱさでも切なさでもない。どう形容するのが正しいのか、あぐねてしまう、何か。念、というのが近いような気もするけれど、それでは足りないような気がしてしまう何か。幸せな気持ちになる感じのものじゃなくて、目が合うと、ちょっとだけ気持ちが塞いでしまう感じの、何か。


そしてしばらくすると、四十歳近くの二人の子持ちの女性の「十四歳のときの初恋」であることが明らかになる。


 生まれてこのかた、わたしは冴えたことがなく、冴えようと思ったこともないからそれはいいのだけれど、じつは一度だけ、この人にだけ冴えてみたい、と強く願ったことがあった。それが十四歳のときの初恋で、わたしはかなり真剣で、そして深刻だった。


 けれど、その思いはわたしのなかから一歩たりとも出ることはなく、誰にも知られずに終わってしまった。相手はわたしの存在を気にかけたことなんか、きっと二秒もないと思う(クラスは一緒だったから、二秒くらいは、まあ)。


 もちろん、相手のことなんかとうに忘れた。どんな顔をしていたどんな男の子だったのか、何をきっかけで好きになったのか、彼のどんな部分をどんなふうに好きだったのか、そういう具体的なことは、もう本当にすっかり消えて、跡形もない。わたしはもうすぐ四十になろうかという、日々のルーティンをこなすことで頭も体もいっぱいの、ふたりの子をもつ母親なのだ。過去をふりかえる余裕はないし、そういう湿度のある性格でもない。でも、こうやって何度も、初恋の恨みともつかないかたまりが、わたしにやってくる余地を残しているのは他ならぬわたし自身のはずだった。それがわたしを、不安にさせる。(川上未映子「初恋の」)  




そうか、そういうものなのか、と「彼」はいう。彼も十四歳のときに初恋をしたが、覚えてないどころじゃない。還暦すぎたって、あのときのあの目、あの笑い方、ある表情、ある仕草、それは忘れ得ない。もっとも恋の仕方が違ってしばしば接近戦だったせいかもしれないが。


でも十四歳のときの恋だけじゃない。小学校五年生のとき、淡い恋心を抱いた二人の少女がいて、当時「ハレンチ学園」という漫画が流行っていたせいもあり、スカートめくりを二人の少女、いやもう一人いて、三人の少女に対して励んだが、ーー当時の彼はきわめて可愛い少年だったせいか、クラスのほかの連中には許されなくても彼だけはなぜだかある程度は許容されてそれが自慢だったーー、あのときの太腿、あのお尻の形、あのパンツの食い込み具合、すべて覚えている。最もお尻の形がよかったアヤちゃんは「可愛さ余って憎さ百倍」などと難しいことを言い返す、大柄ですでに胸の大きくふくらんだ、勉強がよくできるこだった。






で、この違いはなんなんだろう、少年少女期の恋の相手の顔を忘れるものなんだろうか。女のほうはそういうもんなんだろうか。「初恋のかたまり」だけ? 小説のなかの話とはいえ彼にはすこし奇妙な感じがする。

あのせいかな、と考えてみる。


男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。同じ状況の女は、異なった態度をとる。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness1998年)


それともさらにこっちのほうか。


男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型[Anlehnungstypus]にのっとった完全な対象愛[volle Objektliebe]は、本来男性の特色をなすものである。このような対象愛は際立った性的過大評価[Sexualüberschätzung]をしているが、これはたぶん小児の根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus]に由来し、したがって性対象への転移に対応するものであろう。

女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋一で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus ]の高まりが現われてくるように見えるが、この高まりは性的過大評価をともなう正規の対象愛を構成しがたいものにする。

彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである[Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt. (フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


お股のあいだに原ナルシシズムの対象を抱えている女性とそうでない男性の相違かもな、忘れる忘れないの差は、ーーと彼は沈思熟考しつつ、朝礼で整列している時に、隣りにいたまぶしいばかりの三人娘に覚えた羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚を思い起こしつつ、今日はどの少女のスカートをめくろうか、あまりひとりの少女に集中するとスカートをめくらない少女は嫉妬するのではないかと心配した十歳のあのときを思い出すのであった。川上未映子さんの「初恋の」は、少年期の六本の太腿のレミニサンスをもたらして、戸口を吹きぬけるすきま風の匂を嗅ぐかのような陶酔を与えてくれ、大きな感謝を捧げなければならない。


スカートの内またねらふ藪蚊哉 (『断腸亭日乗』昭和十九年甲申歳 荷風散人年六十有六)