ニーチェや太田南畝が言ってることは普遍的事実であって、時代が変わったってその基本は変わらないよ。 |
男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。[Das Glück des Mannes heisst: ich will. Das Glück des Weibes heisst: er will. ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年) |
世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい(蜀山人) |
最近の若い世代では中流が消滅して上下に分かれてしまって、金のかたきにひどくめぐりあいたい男が多すぎるということはあるが、基本は蝦蟇口とソーセージの相違だ。 |
彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ [Hast du auch ein Portemonnaie? Der Waller hat ein Würstchen, ich hab' ein Portemonnaie]」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ[Ja, ich hab' auch ein Portemonnaie]」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢解釈』第6章、1900年) |
蝦蟇口ってのは、世界の起源だからな。
ゴダール、(複数の)映画史、2A |
男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型[Anlehnungstypus]にのっとった完全な対象愛[volle Objektliebe]は、本来男性の特色をなすものである。このような対象愛は際立った性的過大評価[Sexualüberschätzung]をしているが、これはたぶん小児の根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus]に由来し、したがって性対象への転移に対応するものであろう。 |
女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus ]の高まりが現われてくるように見えるが、この高まりは性的過大評価をともなう正規の対象愛を構成しがたいものにする。 |
彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである[Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt]. (フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年) |
男の対象愛、女の自己愛(ナルシシズム)の両方とも根源的ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus ]にかかわるとあるが、この根源的ナルシシズムは原ナルシシズム[primären Narzißmus]とも呼ばれ、次の内容である。 |
自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす[Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む [haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt ](フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年) |
原ナルシシズムは自体性愛のことでもある。 |
後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛-ナルシシズム」は、「原ナルシシズム-二次ナルシシズム」におおむね代替されている。原ナルシシズムは、自我の形成以前の発達段階の状態を示し、母胎内生活という原型、子宮のなかで全的保護の状態を示す。Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. Mit »primärem Narzissmus« wird nun ein vor der Bildung des Ichs gelegener Zustand sder Entwicklung bezeichnet, dessen Urbild das intrauterine Leben, die totale Geborgenheit im Mutterleib, ist. (Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014) |
自体性愛は、ラカン派用語なら自己身体の享楽(享楽自体)と言うが、この「自己身体」の究極の意味は、喪われた母の身体である(フロイトは何度も繰り返している、乳幼児は自己身体と母の身体を区別していないと[参照])。そしてこの母の身体が享楽の対象である。 |
享楽の対象としてのモノ…それは快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要) |
モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, ](Lacan, S7, 20 Janvier 1960) |
例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.] (ラカン、S11、20 Mai 1964) |
喪われた対象とは、去勢された自己身体のこと、ーー《享楽は去勢である[la jouissance est la castration]》(Lacan parle à Bruxelles、 26 Février 1977) |
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) |
究極の去勢された自己身体は、母の乳房ではなく母胎である。 |
喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben] (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年) |
ソーセージってのは、結局、蓮華に支配されてんだよ、性欲とは関係なしに。
「釈迦の掌の上で踊る猿」ってのは格言としては浅いね、男も女も蓮華の蝦蟇口の上を綱渡りしてんだよ。 |
フェレンツィ(1921–1922)が説明した橋[der Brücke. Ferenczi hat es 1921–1922 aufgeklärt.]。橋は何よりもまず、両親が性交において結びつく男根を意味する[der Brücke…Es bedeutet ursprünglich das männliche Glied, das das Elternpaar beim Geschlechtsverkehr miteinander verbindet]。 だがそこからさらに別の意味への展開がある。その意味は、橋は、他の世界(未生の状態、子宮)からこの世界(生)へのの越境である。さらに橋は母胎回帰(羊水への回帰)としての死をもイメージする[wird die Brücke der Übergang vom Jenseits (dem Noch-nicht-geboren-sein, dem Mutterleib) zum Diesseits (dem Leben), und da sich der Mensch auch den Tod als Rückkehr in den Mutterleib (ins Wasser) vorstellt, ](フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年) |
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人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落であるということである。Was gross ist am Menschen, das ist, dass er eine Brücke und kein Zweck ist: was geliebt werden kann am Menschen, das ist, dass er ein _Übergang_ und ein _Untergang_ ist. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「序4」1883年) |
愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意志することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』 第2部「無垢な認識」1884年) |