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2021年9月27日月曜日

エスの穴埋めの至難さ

穴埋めってのはとっても大事だよ、十分には埋まらないにしてもさ



この享楽の穴の穴埋めは剰余享楽だけど、昇華、欲動の昇華、享楽の昇華のことであり、ーー《間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である。au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir 》(J.-A. Miller,  L'Autre sans Autre May 2013)ーーこれはニーチェだって言ってる。


プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb](ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882

芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである。Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes   (ニーチェ「力への意志」遺稿、 1882 - Frühjahr 1887


だいたいフロイトラカンってのはーー臨床的部分は除いてーー、人間の総体的有り様についてはニーチェのパクリだよ。

フロイトの昇華用語の出発はここから出発してんだから。

性的欲動力の昇華 Sublimierung sexueller Triebkräfte(フロイト『性理論三篇』1905年)



あとは昇華を肯定的に見たりその不可能性を言ってるだけさ。


例えばレオナルド論では一応肯定的に見てるね


人間の日常生活の観察が示しているのは、たいていの人は性的欲動力を大部分を彼らの職業活動に振り向けることに成功していることである。性的欲動はこの種の貢献を為すのにとくに上手く適合している。というのは、性的欲動は昇華の能力に恵まれているから。つまり手近な目標を、別のもっと高く評価された非性的目標と取り替えうる。


Die Beobachtung des täglichen Lebens der Menschen zeigt uns, daß es den meisten gelingt, ganz ansehnliche Anteile ihrer sexuellen Triebkräfte auf ihre Berufstätigkeit zu leiten. Der Sexualtrieb eignet sich ganz besonders dazu, solche Beiträge abzugeben, da er mit der Fähigkeit der Sublimierung begabt, d, h. im stände ist, sein nächstes Ziel gegen andere, eventuell höher gewertete und nicht sexuelle, Ziele zu vertauschen. (フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第1章、1910年)


でもダ・ヴィンチはこう言ってんだから、芸術による欲動の昇華はどこかでアホらしいと思ったんじゃないかね。


我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)

Or vedi la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume, dell'uomo che con continui desideri sempre con festa aspetta la nuova primavera, sempre la nuova state, sempre e' nuovi mesi, e' nuovi anni, parendogli che le desiderate cose venendo sieno troppe tarde, e non s'avede che desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, che trovandosi rinchiusa pro anima dello umano corpo desidera sempre ritornare al suo mandatario. E vo' che s'apichi questo medesimo desiderio en quella quintaessenza compagnia della natura, e l'uomo è modello dello mondo.(Codice Leonardo da Vinci)


々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen,.](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)


ニーチェがしだいにアリアドネの迷宮のみに回帰していったのも、結局は同じことだろうな。ーー《いまや、迷宮、アリアドネ、ディオニソスその三つの名前だけがニーチェのなかに残された。Maintenant le labyrinthe, Ariane, Dionysos — sont les seuls noms qui subsistent chez Nietzsche 》(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)



ーー《欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe [] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"》(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)


欲動の昇華とはリビドーの昇華、エスの昇華、悦の昇華のことだ。


エスのリビドーの脱性化あるいは昇華化 die Libido des Es desexualisiert oder sublimiert (フロイト『自我とエス』4章、1923年)

エディプスコンプレクスに属するリビドーの動向は部分的に脱性化され昇華される。Die dem Ödipuskomplex zugehörigen libidinösen Strebungen werden zum Teil desexualisiert und sublimiert,(フロイト『エディプスコンプレクスの消滅』1924年)

我々はまた、女たちは男たちに比べ社会的関心に弱く、欲動昇華の能力が低いと見なしている。Wir sagen auch von den Frauen aus, daß ihre sozialen Interessen schwächer und ihre Fähigkeit zur Triebsublimierung geringer sind als die der Männer. (フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)


女はなんで昇華力が弱いかってのは決まってんで、男よりもひとつ穴が多いせいだよ、だれもがしっているように深い穴がある。


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif ]そのものがあるすべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955

真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)



でもそうはいっても、男も女もエスの穴埋めなんて十分にはできないのさ。



いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


このエスの声が、穴埋めの残滓、異者だよ。


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es [] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation [] der Exterritorialität, [] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



享楽の残滓あるいは固着と異者



で、ラカンはこの異者を「ひとりの女」と呼んだんだ。


ひとりの女は異者である。 une femme, … c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche1919年)


ーー穴のすべてがオメコの穴じゃないにしろさ、究極の穴は男も女も女陰の穴だよ。


ま、せいぜい上品化に励むことさ。


◼️欲動の上品化

われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする機制がある。この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作ーーすなわち自分の空想の所産の具体化[der Verkörperung seiner Phantasiegebilde]ーーによって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、との種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにするととができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 »feiner und höher« なものに思えるという比喩的な説明しかできない。けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動[primärer Triebregungen]を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体[Leiblichkeit]までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)


無理は承知でさ、


◼️昇華の不可能性

人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)



なんたって究極の真理はバウボだからな


「神様があらゆる所に居るって本当?」と小さな少女が母親に尋ねた。「でもそれは無作法な事だと思うわ」哲学者にとってはヒントだ!

 „Ist es wahr, dass der liebe Gott überall zugegen ist?“ fragte ein kleines Mädchen seine Mutter: „aber ich finde das unanständig“ — ein Wink für Philosophen! 


自然が謎と色とりどりの不確実性の背後に身を隠した時の蓋恥は、もっと尊重した方が良い。恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女ではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?


Man sollte die Scham besser in Ehren halten, mit der sich die Natur hinter Räthsel und bunte Ungewissheiten versteckt hat. Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)


大切なのはバウボの穴を見て見ぬふりしないことさ




見て見ぬふりしてると、逆にヴァレリーみたいに女ぐるいになっちまうよ。


外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。


二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。

しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。


他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


女の場合の女狂いとは被愛妄想狂いだ。


女性的マゾヒズムの秘密は、被愛妄想である[Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie(J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)

ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着[un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet]を示している。それは母への固着[fixation sur la mère]であり、自己身体への固着[fixation sur le corps propre]でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである[L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)