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2021年9月26日日曜日

なんでも対象a (穴と穴埋め)

 

きみ、それちがうよ。欠如の主体/穴の主体」で示した図の、「去勢 ≡ 穴 ≡ 斜線を引かれた享楽」は、すべて対象aだよ。




だからジャック=アラン・ミレールはこう言っている。


対象aは主体自体である[le petit a est le sujet lui-même( J.-A. Miller, UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE, 2006)


(-φ)Ⱥ (- J) objet(a) は次の通り。


私は常に、一義的な仕方で、この対象a (-φ)[去勢]にて示している[cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ). Lacan, S11, 11 mars 1964

対象aは、大他者自体の水準において示される穴[Ⱥ]である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (Lacan, S16, 27 Novembre 1968

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ». (Lacan, S15, 10  Janvier  1968




これについてミレールは、既に最初期のセミネールで次のように言っている。


幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982


つまりラカンの幻想の式$ ◊ aは、a ◊ a と置き換えうる。これは一見奇妙だけれどそうなる。


このふたつの(a)の価値は異なり、穴と穴埋めだ。


ラカンは享楽と剰余享楽を区別した[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir]。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) (J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)







ミレールは1984年にも次の四角の「穴と穴埋め」図を示している。



図の穴と穴埋めという言葉は、私が入れたが、ミレールの説明にほぼそうなっている。


この図はジジェクが『斜めから見る』で引用しており、最初に読んだときはなんのことやらサッパリだったよ。もう30年前ぐらいの話だけどさ。


マルクスの価値形態論的に言えば、次のこと。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕


剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970

永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[Lacoquille à entendre à jamais l'écoute de Marx……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如[manque-à-jouir の原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)


剰余享楽は可能な限り少なく享楽すること最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973

ラカンは明瞭に示した、剰余享楽という語を使用するとき。欲望はより少なく享楽することである。

Lacan l'indique bien quand il utilise le terme de plus-de-jouir. Le désir est un moins-de-jouir (Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)


要するに商品語と人間語はいっしょだということをラカンはいっている。




資本、つまり《資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象…、資本の中身なき形態 [die begriffslose Form des Kapitals]》(マルクス『資本論』第三巻第二十四節 )であり、主体の穴と構造的に等価。


症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Laca,.S.18,16 Juin 1971)



実はフロイトにも資本論がある。


夢が必要とした欲動の力 Triebkraft は、ある願望=欲望 Wunsche によって提供されねばならなかった。夢の欲動の力として振舞う願望 Wunsch als Triebkraft des Traumes、それを捕えることが、心配の関心事だった。


この状況は次の喩えで説明しうる。すなわち日中思考は、夢にとって企業家 Unternehmers の役割を大いに演じうる。しかし企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない ohne Capital nichts machen。彼は、出資 Aufwand してくれる資本家 Capitalisten が必要である。夢にとっての心的出資 psychischenAufwand を提供する資本家 Capitalist とは、その日中思考がどんなものであろうと、例外なしに必ず、無意識からの願望 Wunsch aus dem ünbewussten である。


資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである。日中作業によって、ある無意識的な願望が刺激を受ける。そしてこの願望が夢を作り出す。… (フロイト『夢解釈』第七章)


ここには剰余価値aの記述はないが他の論にある[参照]。


フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」のことである。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ]〔・(Lacan, S21, 20 Novembre 1973






ま、でもいま挙げた言説(交換=コミュニケーション)図ではなく、先に掲げた穴埋め図でいいよ、まずは。人間も経済も常にアレをやっている、例外なく。


で、頑張って穴埋めしても穴は埋まらない、死ぬまで。死んだら埋まるよ。



享楽はダナイデスの樽である。la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » (ラカン, S17, 11 Février 1970)


ーーダナイデス、すなわち底のない樽を永遠に満たすように罰せられたダナオスの娘たち





なんたって穴はブラックホールだからな、究極的にはね。


ジイドを不安で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir ](Lacan, JEUNESSE DE GIDE, E750, 1958)


不安は対象を喪った反応として現れる。最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand](フロイト『制止、症状、不安』第8章)

結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年