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2021年9月25日土曜日

女性原理の時代

もともと人は、だれもが知っているように、男女とも母女との二者関係で始まっている。



いま中心の菱形紋を赤と緑に分けたが、フロイト用語なら「赤/緑」は、「融合/分離」、ラカン用語なら「疎外/分離」だ。赤の方の融合あるいは疎外は「同一化」とも表現される。母女に同一化してしまえば、母に支配されて受動的なままだ。したがって分離して能動性を確保しようとするが、一歳までは他の動物の胎児なみの保護が必要な状態の未熟児として生まれたヒト族は、やはり同一化を捨て去るわけにはいかない。したがって菱形紋の形の回転運動が原幼児期にはある。

後の人生で通常は、左項の女は右項の母女の場を占めるようになる。


これが男女間の二者関係である。だが二者関係とは基本的にはうまくいかない。


三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



第三項の支えがなければ「一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である」となってしまう。


ここで少なくともかつては導入されていたのが「父の機能」である。


ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。

二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状態(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。

(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHEnew studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 2009



父の機能とは、支配の論理としての家父長制がイメージされることが多いが、本来の機能は二者関係的不自由から逃れるための自由を支える機能なのである。


権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)


このアーレントの言っている権威は、中井久夫が言っている《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》(中井久夫「「踏み越え」について」(2003年)とほぼ等価である。

例えばラカンはこう言っている。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976


この「父の名/父の名の使用」の相違は、柄谷が長年言っているカントの「構成的理念(die konstruktive Idee) / 統整的理念(die regulative Idee) 」にほぼ相当し、支配の論理に陥りがちな家父長制的理念=構成的理念=父の名ではなく、良性の権威として働く統整的理念が「父の名の使用」ということを含意している。


さらに柄谷の、より政治運動的領野での区分「帝国/帝国の原理」にこれまた近似する。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)

近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。〔・・・〕

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要〔・・・〕。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)


繰り返せば、統整的理念あるいは帝国の原理とは、何よりもまず反支配的・良性の権威であり、私はこれを「父の原理」と呼ぶことを好む。


それは、二者関係的な距離のない狂宴=母なるオルギアから良性の権威としての父なるレリギオへ、という風に言ってもよい。


母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要)

ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)



こういった思考による現代批判は、言うはやさしいが、ではこの今どうしたらいいのかというのはとても難しい。1968年の学園紛争に始まって、1989年には最後の父であったマルクスも蒸発した。その過程のなかで、ただひたすら市場原理に支配された「理念なき」新自由主義猖獗が極まった21世紀である。

かつての父の権威はどこかにいってしまったのは明らかで、男女関係だけでなく、通常の人間関係におけるレイシズムやいじめ等、さらには国際政治的にも、弱肉強食的な距離のない狂宴に近い時代になってしまっている。これらは少なくとも精神分析的には「父の権威の失墜」に起因する。ラカンは既に1970年前後にレイシズムの猖獗や男女間の争闘を予言しているが、政治的にも同様な現象が起こっている。

かつてのフェミニストのアイコン、のちに「家父長制打倒」スローガンがいつまでたってもお好きらしいフェミニズムから距離を置いたノーベル文学賞作家ドリス・レッシングは自伝でこう書いている。


子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。 (ドリス・レッシング Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994


21世紀になっても、父の権威がなくなって不自由になったことに気づいていないポリコレフェミは、たんなる木瓜の花に過ぎない。


わたしは目を瞠(みは)った。「家父長制と闘う」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……。かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている。(上野千鶴子「セクハラ「ガマンしない娘たち」育てた誇り」朝日新聞2018523日)


話を戻せば、父の支えをめぐる思考は『フロイトが集団心理学と自我の分析』(1921年)で記述しているが、当時は第一次世界大戦によって「ヨーロッパの父の失墜」が明らかになった時代であり、フロイトの論文はこの「喪われた父」への応答のようなところもある。

フロイトのこの論には次の図がある。




これは、外的な対象を自我理想として取り入れて自我へ互いに結びつくという図である(ここでの自我理想は一般の通念に反して、本来の超自我ではなく、ラカンの父の名に相当する[参照])。

このフロイトの図を単純化すれば、次の図の右側となる。


右側は権威があるゆえに自我は互いに結びつくという図である。他方、左側は、権威の消滅によって自我間で争闘が起こるという図である。

この二項/三項の対比とは、下段の「自我」はいくつあっても「権威」の支えがなければ二項関係であり、「権威」の支えがあれば三項関係である。権威といっても、場合によってはーー例えば夫婦関係ならーー家を持つという夢や子供でさえ支えとして機能しうる。音楽を愛するパートナー同士であるなら、これが二人の間の第三項の権威になりうる。


ここですこし飛躍しよう。国際政治の世界ならどうか。柄谷の『世界史の構造』には、次のような思考がある(最下段の「父在/父不在」は私が付け加えた)。


柄谷は歴史周期説をとっており、60年周期である。これには異論がある人もいるだろうが、思考のモデルとしては侮り難い。1810年から1870年のあいだの英国パパ、1930年から1990年のあいだの米国パパ。この図の1750年以降のほかの60年の期間はパパのいない時代である。次にパパが出現するのは、2050年のこととなる。

どのパパだろう? それまでは弱肉強食の時代、二項関係の時代、母なるオルギア(距離のない狂宴)の時代が続くんだろうか。もし続いたら、世界は滅んじゃうかもしれないよ。

世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策で競っている。日清戦争後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国は不適格。私はインドがヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります。(柄谷行人『知の現在と未来』岩波書店百周年記念シンポジウム、20131123日)



インドのヘゲモニーってのか、このあたりの国が固まったらいっそうスゴイことになる、


インド     135,261万人(2位)2019

パキスタン   220,998,678人(5位) 2019

バングラデシュ 159,400,000人(7位)2015

アフガニスタン 37,466,414人(39位)2021


アフガニスタンも内戦が落ち着けば、急速に人口増があるだろうし。もっともパキスタンとインドの組み合わせは限りなく困難だろう。


インドの人口が中国を抜くのは、国連予想では2027年、中国共産党の機関誌「人民日報」の国際版「環球時報」では、もっと早く2024年だそうだ。


いずれにせよ米国やらヨーロッパやらと近未来の弱小国にいつまでもかかずらわっているのをやめないとな。ヨーロッパ自体、どんどんイスラム人口が増えてパックリやられるのはそんなに先じゃない。もちろん米の軍事力ってのはあり、最後のあがきでそれを大々的に使う可能性はあるだろうが。


という話は余談であり、ここでの話題は男女関係のつもりだった。父なき世代は、男女間の争いがきわまり結婚できないどことか「人間の消滅」にならないように注意しないとな。なんたっていまは女性原理の時代なんだから、男女とも「つつしみなし」のオルギア的罵り合いに励む傾向にあるのは間違いないだろうからな。



原理の女性化がある。両性にとって女なつものがある。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.(エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


男女間に平等というものはない。象徴的ファルスの覆いをとってしまえば、原支配者の女なるものが現れる。もともとファルスとは原初にある女なるものの覆いに過ぎない。


家父長制とファルス中心主義は、原初の全能の家母長システムの青白い反影にすぎない。

the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998年)


全能の家母長とは、前回示した次の表現群に相当する。




現在のーー少なくとも先進諸国はーーこの女性原理の時代にますます進んでゆき容易に止めようがない。そもそも若い世代ではかなりの割合で、解剖学的男自体が、オルギア的女なるものの体現者になってしまっているように見える。


オルギアとまで言わなくても、二項関係的女性の原理の体現者とは次のような態度をはしたなく露出させてしまうーー象徴的ファルスとは異なったイマジネールファルスを基盤としたーー種族である。




これが、ラカンが学園紛争前後に、父の蒸発[évaporation du père]やらエディプスの失墜[déclin de l'Œdipe ]やらの時代が始まったとした、そこに生きる者たちの主要な特徴のひとつだ。


もはやどんな恥もない[Il n'y a plus de honte下品であればあるほど巧くいくよ[plus vous serez ignoble mieux ça ira (Lacan, S17, 17 Juin 1970)


私のような旧世代は、エディプス的ガチガチ権威への対抗のために「敢えて」あるいは「意図的に」想像的ファルスを露出させる戦術をとったところがないでもないのだが、最近の若いのはマガオでやっている、あれはジョークでないらしい。ツイッターなんか垣間見るとレイプされっぱなしだ。


人の羞恥心のなさは他人の羞恥心をレイプする[l'impudeur de l'un à elle seule faisant le viol de la pudeur de l'autre.](Lacan, E772, 1963


繰り返せば、肝腎なのは、三項原理・父の原理・統整的原理だが、ファルス的支配の論理・家父長制原理に陥らずにそれを設置するのは困難を極める。おそらくこのまま女性原理の時代が少なくとも当面続くのではないか。




アルチュセールのもとで学びマルキストとして出発したラカンの娘婿、現代臨床ラカン派の首領ジャック=アラン・ミレールは、最近では次のように言っているぐらいだ。

父の名の失墜は、臨床において予期されなかった遠近法を導入する。ラカンの表現「人はみな狂っている。人はみな妄想する[Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant 」はジョークではない。これはすべての話す存在へと狂気のカテゴリーの拡張を示している。すなわち人はみなセクシャリティについてどうすべきかの知の欠如に苦しむ(それぞれの仕方で性的妄想する)。


Le déclin du Nom du Père, dans la clinique, introduit une perspective inédite saisie par Lacan sous la formule : « Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant ». Ce n'est pas une plaisanterie. Cela renvoie à l'extension de la catégorie de la folie à tous les être parlants : ceux qui souffrent de n'avoir aucun savoir sur le sexe.chacun a son délire sexuel]。


私は言わなければならない。おそらくここにいるマジョリティの見解ではないだろうにも拘らず。私は考えている、カトリック教会のやり方は注目に値すると。現在でさえカトリック教会は現実界を防ぐために闘っている。生殖、セクシャリティ、家族の問題等。それらは時代錯誤的要素である。しかし彼らには太古の言説の現前、持続、堅固さがある。あなたがたは言いうる、失われた大義として賞賛すべき言説だと。


Je dois dire, même si ça n'est peut-être pas l'avis de tous ici, que je trouve remarquable la façon dont l'église catholique, encore aujourd'hui, lutte pour protéger le réel, …pour les questions de la reproduction, de la sexualité ou de la famille. Ce sont des éléments anachroniques qui témoignent de la durée et de la solidité de ce discours ancien. Voilà un discours admirable comme cause perdue 〔・・・〕


失われた大義? だがラカンは言った、教会の大義はおそらく凱旋を告げると。Cause perdue ? Lacan disait cependant que la cause de l'église annonçait peut-être un triomphe. (ラカン「カトリックへの言説によって先導される宗教の凱旋 Le triomphe de la religion précédé de Discours aux catholiques1974)。


なぜか? 自然から解放された現実界は、ますます悪く、ますます耐え難くなっているから。取り戻し得ないとしても失われた秩序へのノスタルジーは、イリュージョンの力をもつ。Pourquoi ? Parce que le réel, dégagé de la nature, est pire et devient de plus en plus insupportable. Nostalgie pour un ordre perdu impossible à retrouver qui a la vigueur d'une illusion. ](J.-A. MILLER,21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE2012年)


ここでのカトリックの大義は、カトリック教自体を直接に示していない。これこそ父の原理である。