もともと人は、だれもが知っているように、男女とも母女との二者関係で始まっている。
いま中心の菱形紋を赤と緑に分けたが、フロイト用語なら「赤/緑」は、「融合/分離」、ラカン用語なら「疎外/分離」だ。赤の方の融合あるいは疎外は「同一化」とも表現される。母女に同一化してしまえば、母に支配されて受動的なままだ。したがって分離して能動性を確保しようとするが、一歳までは他の動物の胎児なみの保護が必要な状態の未熟児として生まれたヒト族は、やはり同一化を捨て去るわけにはいかない。したがって菱形紋の形の回転運動が原幼児期にはある。
後の人生で通常は、左項の女は右項の母女の場を占めるようになる。
これが男女間の二者関係である。だが二者関係とは基本的にはうまくいかない。
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
第三項の支えがなければ「一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である」となってしまう。 ここで少なくともかつては導入されていたのが「父の機能」である。 |
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。 |
二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状態(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。 |
(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009) |
父の機能とは、支配の論理としての家父長制がイメージされることが多いが、本来の機能は二者関係的不自由から逃れるための自由を支える機能なのである。 |
権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年) |
このアーレントの言っている権威は、中井久夫が言っている《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》(中井久夫「「踏み越え」について」(2003年)とほぼ等価である。
例えばラカンはこう言っている。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
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この「父の名/父の名の使用」の相違は、柄谷が長年言っているカントの「構成的理念(die konstruktive Idee) / 統整的理念(die regulative Idee) 」にほぼ相当し、支配の論理に陥りがちな家父長制的理念=構成的理念=父の名ではなく、良性の権威として働く統整的理念が「父の名の使用」ということを含意している。 さらに柄谷の、より政治運動的領野での区分「帝国/帝国の原理」にこれまた近似する。 |
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帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年) |
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近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。〔・・・〕 帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要〔・・・〕。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年) |
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繰り返せば、統整的理念あるいは帝国の原理とは、何よりもまず反支配的・良性の権威であり、私はこれを「父の原理」と呼ぶことを好む。 |
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それは、二者関係的な距離のない狂宴=母なるオルギアから良性の権威としての父なるレリギオへ、という風に言ってもよい。
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こういった思考による現代批判は、言うはやさしいが、ではこの今どうしたらいいのかというのはとても難しい。1968年の学園紛争に始まって、1989年には最後の父であったマルクスも蒸発した。その過程のなかで、ただひたすら市場原理に支配された「理念なき」新自由主義猖獗が極まった21世紀である。
かつての父の権威はどこかにいってしまったのは明らかで、男女関係だけでなく、通常の人間関係におけるレイシズムやいじめ等、さらには国際政治的にも、弱肉強食的な距離のない狂宴に近い時代になってしまっている。これらは少なくとも精神分析的には「父の権威の失墜」に起因する。ラカンは既に1970年前後にレイシズムの猖獗や男女間の争闘を予言しているが、政治的にも同様な現象が起こっている。
かつてのフェミニストのアイコン、のちに「家父長制打倒」スローガンがいつまでたってもお好きらしいフェミニズムから距離を置いたノーベル文学賞作家ドリス・レッシングは自伝でこう書いている。 |
子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。 (ドリス・レッシング Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994) |
21世紀になっても、父の権威がなくなって不自由になったことに気づいていないポリコレフェミは、たんなる木瓜の花に過ぎない。 |
わたしは目を瞠(みは)った。「家父長制と闘う」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……。かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている。(上野千鶴子「セクハラ「ガマンしない娘たち」育てた誇り」朝日新聞2018年5月23日) |
話を戻せば、父の支えをめぐる思考は『フロイトが集団心理学と自我の分析』(1921年)で記述しているが、当時は第一次世界大戦によって「ヨーロッパの父の失墜」が明らかになった時代であり、フロイトの論文はこの「喪われた父」への応答のようなところもある。
フロイトのこの論には次の図がある。
このフロイトの図を単純化すれば、次の図の右側となる。
この二項/三項の対比とは、下段の「自我」はいくつあっても「権威」の支えがなければ二項関係であり、「権威」の支えがあれば三項関係である。権威といっても、場合によってはーー例えば夫婦関係ならーー家を持つという夢や子供でさえ支えとして機能しうる。音楽を愛するパートナー同士であるなら、これが二人の間の第三項の権威になりうる。
ここですこし飛躍しよう。国際政治の世界ならどうか。柄谷の『世界史の構造』には、次のような思考がある(最下段の「父在/父不在」は私が付け加えた)。
柄谷は歴史周期説をとっており、60年周期である。これには異論がある人もいるだろうが、思考のモデルとしては侮り難い。1810年から1870年のあいだの英国パパ、1930年から1990年のあいだの米国パパ。この図の1750年以降のほかの60年の期間はパパのいない時代である。次にパパが出現するのは、2050年のこととなる。
どのパパだろう? それまでは弱肉強食の時代、二項関係の時代、母なるオルギア(距離のない狂宴)の時代が続くんだろうか。もし続いたら、世界は滅んじゃうかもしれないよ。
世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策で競っている。日清戦争後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国は不適格。私はインドがヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります。(柄谷行人『知の現在と未来』岩波書店百周年記念シンポジウム、2013年11月23日) | |||||||||||||
インドのヘゲモニーってのか、このあたりの国が固まったらいっそうスゴイことになる、 | |||||||||||||
インド 13億5,261万人(2位)2019年 パキスタン 220,998,678人(5位) 2019年 バングラデシュ 159,400,000人(7位)2015年 アフガニスタン 37,466,414人(39位)2021年 | |||||||||||||
アフガニスタンも内戦が落ち着けば、急速に人口増があるだろうし。もっともパキスタンとインドの組み合わせは限りなく困難だろう。 | |||||||||||||
インドの人口が中国を抜くのは、国連予想では2027年、中国共産党の機関誌「人民日報」の国際版「環球時報」では、もっと早く2024年だそうだ。 いずれにせよ米国やらヨーロッパやらと近未来の弱小国にいつまでもかかずらわっているのをやめないとな。ヨーロッパ自体、どんどんイスラム人口が増えてパックリやられるのはそんなに先じゃない。もちろん米の軍事力ってのはあり、最後のあがきでそれを大々的に使う可能性はあるだろうが。 という話は余談であり、ここでの話題は男女関係のつもりだった。父なき世代は、男女間の争いがきわまり結婚できないどことか「人間の消滅」にならないように注意しないとな。なんたっていまは女性原理の時代なんだから、男女とも「つつしみなし」のオルギア的罵り合いに励む傾向にあるのは間違いないだろうからな。
男女間に平等というものはない。象徴的ファルスの覆いをとってしまえば、原支配者の女なるものが現れる。もともとファルスとは原初にある女なるものの覆いに過ぎない。
現在のーー少なくとも先進諸国はーーこの女性原理の時代にますます進んでゆき容易に止めようがない。そもそも若い世代ではかなりの割合で、解剖学的男自体が、オルギア的女なるものの体現者になってしまっているように見える。 オルギアとまで言わなくても、二項関係的女性の原理の体現者とは次のような態度をはしたなく露出させてしまうーー象徴的ファルスとは異なったイマジネールファルスを基盤としたーー種族である。
繰り返せば、肝腎なのは、三項原理・父の原理・統整的原理だが、ファルス的支配の論理・家父長制原理に陥らずにそれを設置するのは困難を極める。おそらくこのまま女性原理の時代が少なくとも当面続くのではないか。
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