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2021年9月24日金曜日

すべての女は妖怪である


ひとりの女なき主体はない」に引き続く。


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (Lacan , S17, 11 Février 1970)


そう、あの女はわれわれに原トラウマを与えたのである。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

享楽はトラウマ的である[la jouissance est traumatiqueAgnès Aflalo, Attentats sexuels et traumas, 2020)



憎んでいるというわけではないかもしれない。だがあの女は妖怪である。


母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。〔・・・〕


三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。〔・・・〕


ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!


私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」1935年)


あの女の影はすべての女に落ちている。


母の影はすべての女に落ちている。したがってすべての女は母の力をを備えている、母なる全能の力さえも[The shadow of the mother falls on every woman so that she shares in the power, and even in the omnipotence, of the mother. (Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness, 1998)


母女[MÈREFEMME]という原大他者の全能の影である。


母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]〔・・・〕


全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある。La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère,(J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)


原支配者としての母なる女のトラウマ、その残滓 (а)はわれわれの身体の上に永続的なリビドーの固着をもたらしたのである。


享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido (Lacan, S10, 26 Juin 1963


繰り返せば、《対象aは穴(トラウマ)である[l'objet(a), c'est le trou]》 (Lacan, S16, 27 Novembre 1968


このトラウマ的リビドー固着の残滓は生涯消えない。


常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


したがって、母なる女の影が落ちているすべての女は妖怪である。


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)




最も厄介なのは、あの女はトラウマというブラックホールの引力の体現者、原誘惑者であるとともに、ーー原愛の対象でもあることである。


子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性へのアタッチメントに起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。


疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。


乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.


最初の対象は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes.


この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeutung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen — bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)



このアンビバレントな対象の後継者がすべての女である。世のミソジニーの起源はここにしかない。


そもそもこんな対象の後継者に対して人はいかに堪えうることができるというのか。




しかし改めて、あの女は何という存在であろうか?


大文字の母の基底にあるのは、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である[Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou Colette Soler, Humanisation ? ,2014

母なる対象はいくつかの顔がある。まずは「要求の大他者」である。だがまた「身体の大他者」、「原享楽の大他者」である[L'objet maternel a plusieurs faces : c'est l'Autre de la demande, mais c'est aussi l'Autre du corps…, l'Autre de la jouissance primaire.(Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)



あの女は、いわゆる愛憎コンプレクス[Liebe-Haß-Komplex]、原愛憎コンプレクスの対象である。


愛は非常にしばしば「アンビヴァレンツ」に、つまり同一の対象にたいする憎悪衝動をともなって現れる[Liebe …daß sie so häufig »ambivalent«, d. h. in Begleitung von Haßregungen gegen das nämliche Objekt auftritt. ](フロイト『欲動とその運命』1915年)


ああ、世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし 


ああ、世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい


ーー蜀山人太田南畝



ああ、母女なる神! ああ、母女なる超自我! 


一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.](ラカン, S17, 18 Février 1970

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)

母なる超自我[surmoi maternel原超自我 surmoi primordial]、この原他者[premier autre]の水準において、ーーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。 (Lacan, S5, 02 Juillet 1958


人は父なる神などと寝言を言っていたら間違いなく道を誤る。


エドゥアルト・マイヤー(1906)は、神の原初の性格像を再構築した。神は不気味で、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回る。Meyer das ursprüngliche Charakterbild des Gottes rekon-struieren: Er ist ein unheimlicher, blutgieriger Dämon, der bei Nacht umgeht und das Tageslicht scheut.(フロイト『モーセと一神教』2.41939年)


おわかりだろうか、神の起源は、あの女であり、不気味なものである。


ひとりの女は異者である。 une femme [] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。[étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


あの超自我なる女神は死ぬまでタタルのである、ーー《神のタタリ[ l'ex-sistence de Dieu]》 (Lacan, S22, 08 Avril 1975)


ふだんは暗闇に身を潜めているやもしれぬ。だがあの恐ろしい女主人は、最も静かな時刻に必ずタタル。


きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin. .(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde1884年)


現代の科学精神によって原始人の魂を抹殺されていない人物なら誰もが感知していることだ。


後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)


人は繊細さを失わないようにせねばならない。繊細さの欠如は世界を見誤る。


常にニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


発達段階の《原点としては、人はみな原始人である[son heure de gloire, que nous sommes tous des primitifs. ]》  (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 29 MARS 1989)、これを忘却して何の人生だというのか。


いや仮に忘却しても必ず回帰がある。これを原抑圧されたものの回帰(排除されたものの回帰Le retour du forclos)という。より簡潔にいえば、原抑圧のタタリl'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)である。

別名、超自我のタタリl'ex-sistence du Surmoi]。


ーー《超自我と原抑圧との一致がある il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire . (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)。


これが神のタタリの内実である。


したがって人は常にあの妖怪女の後継者たちを怖れねばならない。


身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺテロの手紙、58』)

メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.〔・・・〕

この満たされない母母は貪り喰うことのできる何ものかを探し回っている[Cette mère inassouvie,…elle cherche ce qu’elle va dévorer, quaerens quem devoret. ](Lacan, S4, 27 Février 1957)



あの妖怪女との出会いは、もちろんこの世に出てきてからだけではない。アルトーが表現しているように、人はみな母胎内にて既に 'quaerens quem devoret' の憂き目に遭遇している。


私、アントナン・アルトー、189694日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、9カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り喰う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが大文字の母は私を捉えようと望んでいたのです。


moi Mr Antonin Artaud né le 4 septembre 1896 à Marseille, 4, rue du Jardin des Plantes, d'un utérus où je n'avais que faire et dont je n'ai jamais rien eu à faire même avant, parce que ce n'est pas une façon de naître, que d'être copulé et masturbé pendant 9 mois par la membrane, la membrane brillante qui dévore sans dents comme disent les UPANISHADS, et je sais que j'étais né autrement, de mes œuvres et non d'une mère, mais la MÈRE a voulu me prendre Antonin Artaud『タマウラマTarahumaras』)



これは男たちだけでなくすべて女たちも同じであることがおわかりになっただろう。繰り返せば、女性嫌悪、あるいは女性恐怖の起源はここにしかない。ひょっとして男たち以上に女たちはミソジニストでありうる。



女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍であるわかった? だめ? 説明するのは確かに難しい演出する方がいいその動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ審美的葉脈自由の目彼女たちは自由を待っている空港にいるとぼくにはそれがわかる家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々あるいは逆に、熱に浮かされたような目彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや全員が彼女に敵対するひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいないだがその女でさえ、次には列に戻っているひとりの女を妨害するために今度は彼女の番だ何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合にはつまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま悪魔のお通り! 地獄絵図だ! (ソレルス『女たち』鈴木創士訳)


父の名に穢されていない純粋な女たちよ、私は知っている。なぜあなたがたが男たちに比べて格段に自傷行為を繰り返すのかを。


「純粋な者たち」よ、神の仮面 が、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロス greulicher Ringelwurm)がいる。Eines Gottes Larve hängtet ihr um vor euch selber, ihr "Reinen": in eines Gottes Larve verkroch sich euer greulicher Ringelwurm. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」)



ーー《真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)



ここでニーチェとともに次の問いを発しよう。


最後に私は問いを提出する。女自身は、女性の心は深い、あるいは女性の心は正しいと認めたことがかつて一度でもあったのだろうか? そして次のことは本当であろうか? すなわち、全体的に判断した場合、歴史的には、「女なるもの das Weib」は女たち自身によって最も軽蔑されてきた、男たちによってでは全くなく。"das Weib" bisher vom Weibe selbst am meisten missachtet wurde - und ganz und gar nicht von uns? -(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)


………………


さておわかりだろうか、ここに記されたような原始人の繊細さを女なるものに対して抱くのが真のフェミニストであることを。世のアンチフェミニストだけでなく、原点を問うことなく時流に合わせているだけの似非フェミニストたちをそうそうに「抹殺」せねばならない。


女の一種の原罪、われわれに女たちを愛させるという罪 une espèce de péché originel de la femme, un péché qui nous les fait aimer (プルースト「囚われの女」)

生への信頼は消え失せた。生自身が「一つの問題」となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる「女への愛」 にほかならない・・・


Das Vertrauen zum Leben ist dahin; das Leben selber wurde ein P r o b l e m . — Möge man ja nicht glauben, dass Einer damit nothwendig zum Düsterling, zur Schleiereule geworden sei! Selbst die Liebe zum Leben ist noch möglich, — nur liebt man a n d e r s … Es ist die Liebe zu einem Weibe, das uns Zweifel macht…(ニーチェ対ワーグナー「エピローグ」1888年)



流行におもねり、妣なる妖怪から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますりフェミニストどもに災いあれ!



ところで「妣」という漢字をご存知であろうか。最後に教養のない方々のために啓蒙的に振る舞うことにする。


すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)

「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)


ーー《匕は、妣()の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。》(漢字源)