少し前に触れたフランシス・フクヤマは、『世界の終わりと最後の人間』(1992年)ののち、2002年にバイオテクノロジー(生命工学)に関する著書 『我々の人間後の未来一ーバイオテクノロジー革命の帰結』Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution という書を上梓しているらしい。ゼンゼン知らなかったが。 冒頭近くに次のようにある。 |
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この論考に対する多くの批評を通じて考えさせられたが、唯一反論できないと思ったのは、科学の終わりがない限り、歴史も終わるはずがない[we hadn't reached the end of history, because we hadn't yet reached the end of science]ということだった。(フランシス・フクヤマ『我々の人間後の未来一ーバイオテクノロジー革命の帰結』2002年) |
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これはいいこと言ってるね、歴史は終わらなくても全然いいから、科学は終わらせないとな(?)。 あるいは、 |
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バイオテクノロジーは、将来大きな利益をもたらす可能性がある反面で、物理的に見えやすい脅威、あるいは精神的で見えにくい脅威を伴う。これに対して、我々はどうすべきなのか。答えは明白である——国家の権力を用いて、それを規制するべきだ。(フランシス・フクヤマ『我々の人間後の未来一ーバイオテクノロジー革命の帰結』2002年) |
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いつものように(?)、私は原著を何も読んでいないのだが、これらを知ったのは➡︎ 佐藤光「バイオテクノロジーの哲学序説ーーフランシス・フクヤマ 「我々の人間後の未来』 をめぐってーー」PDF からであり、それを眺める限りでは、遺伝子工学がとくにヤバイ。 |
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それと最近なら「サリンドローンが起こらない可能性」で記した、人工知能を駆使した「自律型致死兵器」だな、この二つだけでも、近未来に人間と世界はボロボロになるのはもう目に見えてるよ。ボクはもう一回りの人生送ったからどうでもいいが、いま三十やら四十やらの齢の連中はボロボロにならない方法を模索したほうがいいと思うがね、このまま放っておいたら、遅くとも二十年後には致死システムの餌食になってるだろうからな。人生、五十歳で終わりになっちまったらもったいないよ。 |
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フクヤマは「国家の権力を用いて、それを規制するべきだ」と言っているが、一国家じゃ規制は無理に決まってるので、「世界国家」が必要だよ、カントの「世界共和国(Weltrepublik)」のたぐいのさ、諸国家をなくすってヤツだ。ま、世界共和国でも科学の死の欲動を規制するのはほとんどムリかもしれないけど、少しは可能性はあるんじゃないかね。 それとも科学者をポルポトすべきかもな。 |
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一切の知識人的な者を消滅させ、その基盤をも覆し、いわば文化を「更地」しようとした試みをわれわれは一つ知っている。それを敢えてしたポルポトは長期のフランス留学において興議申立て世代に接触した、フーコーの忠実な精神的弟子である。フーコーがそれを予想しなかったとしても、弟子は師よりも論理を徹底させがちである。バリの学生は「石畳の下は砂だ」と叫んだ。「砂」とは「更地」ということである。ポルポトはほんとうにそうしてしまった。知識人の片鱗をみせる者として歯科医までを殺し、貨幣と都市とを廃絶し、国民皆耕が実現するかにみえた。ただ、銃剣による強制なしではそれは実現しなかった。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」初出1995年『家族の深淵』所収) |
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世界国家を毛程でも模索している文系の知識人は当面見合わせてもいいさ、でも理系の知識人に対しては、その大半はポルポトの対象にするしか手がないだろうよ、世界がボロボロにならないようにするためにね。どうだろうな、もはやこれ以上、科学なんて発展しなくてもいいさ。ゴクロウサン! やっぱり魂を侮ったのが悪かったのさ。
理系は犠牲になって世界を救えよ、いままでの罪ぼろしにさ。
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