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2021年9月17日金曜日

いまも生きる「歴史の終わりと最後の人間」

 フランシス・フクヤマの『歴史の終わりと最後の人間 』(Fukuyama1992))とサミュエル・ハンティントンの『文明の衝突と世界秩序の再形成』(Hungtington1996))という1990年代に出版された書物があって、フクヤマのほうは市場経済と自由主義の勝利」、ハンティントンのほうは「民族宗教紛争、そしてイスラムのテロと米国の戦争」を主に語っていることになっている(私は読んだことがないが)。

この二書は、かつては世界の政治経済をめぐる論議の準拠枠となっていたことは確かだが、今でもそういう部分があるようだ。国際政治学者の中山俊宏はこう書いている。


9.11戦争」の終焉と20年に及ぶ介入主義の徒労感 アメリカはどこで間違ったのか ~アフガンから消えた米軍、消えぬ国際テロへの脅威~ (中山俊宏、2021910日)

9.11テロ攻撃は「歴史からの小休止」といわれたポスト冷戦時代に終止符を打った事件だった。90年代は歴史の終焉論が唱えられ、歴史が終わった世界では、もはや世界史的な事件は起きず、非歴史的な日常の連続で、人々は倦怠感と共に生きていく術を学んでいくしかないといわれた。


フランシス・フクヤマが唱えた歴史の終焉論は、冷戦におけるアメリカの勝利を礼賛したものと解されたが、実はフクヤマはこうした倦怠の中から生まれてくるであろう「末人」の危険性についても論じていた。末人はニーチェ哲学の中核にある概念だが、ここでは単に単調な日常を淡々と繰り返すことに満足する「意味を模索しない人間」とでもしておく。



Youtubeでも、細谷雄一を司会とした「911テロかいうら20年」という議論で、中山俊宏、池内恵、篠田英朗は、フクヤマの名を出している。この四人とも1970年前後に生まれ専門研究者として出発しつつあった時期に911が起こったわけで、911世代の同窓会の議論だとも口にしている。


で、フクヤマの『歴史の終わり』ってのは何だっけな。浅田彰は1992年のたぶん末だと思うが、フクヤマと対談しており、『「歴史の終わり」と世紀末の世界』の第1章に「歴史の終わり?ーーフランシス・フクヤマとの対話」との名で掲げられている。

冒頭に実にすぐれて簡潔な紹介文がある。

1989年の夏、一篇の論文が世界的なセンセーションを巻き起こした。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」(「ナショナルインタレスト」夏期号)である。へーゲルによれば、歴史とは、異なったイデオロギーを奉ずる者たちの繰り広げる闘争の歴史である。したがって、そのような闘争が終われば、歴史は終わる。さて、自由主義は全体主義と共産主義を相手に闘争を続けてきたが、第二次世界大戦で全体主義が敗北し、旧ソ連東欧ブロックの崩壊で共産主義が敗北しつつあるいま、その闘争は事実上終局に達した。むろん、今後も局地的な戦いはあるだろうが、全体主義や共産主義のように自らの普遍性を主張するイデオロギーに基づいたグローバルな闘争はもうないだろう。とすれば、歴史は自由主義の勝利をもって終わったと言うことができる。実のところ、このような議論は、戦前へーゲル哲学をフランスに導入したアレクサンドル・コジェーヴがすでに展開していたもので、フクヤマはコジェーヴに学んだ師のアラン・ブルームを経由してそれを継承したのだとも言える。


それにしても、フクヤマ論文の発表はいかにもタイムリーだった。その直後に東欧諸国がなだれをうって民主化し、やがて旧ソ連さえ共産主義体制の崩壊を迎えたからである。さらに、著者のフクヤマがアメリカ国務省の政策立案スタッフだったことも、その論文に特別な意味を与えた。つまり、それは冷戦に勝ち抜いた自由主義陣営の「勝利宣言」として世界に受け取られたのである。


いささかアイロニカルなのは、そのフクヤマ自身が日系人だということだろう。ちなみに、祖父は大阪商科大学(大阪市立大学の前身)の初代学長をつとめた河田嗣郎であり、フクヤマが相続することになるその蔵書はマルクスの「資本論」の初版を含んでいるという。1952年にシカゴで生まれたフクヤマは、コーネル大学で西洋古典学、イェール大学で比較文学を修めたあと、ハーヴァード大学でソ連問題の研究に従事した。国務省を退いたあとは、有力なシンク・タンクであるランド・コーポレーションに移って研究を続け、論文で提出した論点をさらに展開して、1992年には 『歴史の終わりと最後の人間』(邦訳「歴史の終わり」三笠書房)という書物をまとめるにいたっている。(浅田彰『「歴史の終わり」と世紀末の世界』第1章 歴史の終わり?「フランシス・フクヤマとの対話」1993年)



そしてこの対話の最後は次のように終わる。


フクヤマ)こうして話してきてはっきりしたことですが、私は「歴史の終わり」を今もって仮説として考えているということを強調しておく必要があります。私の最初のエッセイのタイトルは「歴史の終わり?」だったのに、本のタイトルは疑問符なしの「歴史の終わり」になっているものだから、「フクヤマは自分の意見への確信を深め、もはや問いではなく肯定命題を述べている」と受けとめる人たちがいる。それは間違いです。「歴史の終わり」は今も基本的に未解決の問いなのです。


今までに見てきた通り、現代の世界にはさまざまな不確定要因があります。また、自由民主主義が本当に満足すべき最終解決がどうか、それに代わり得る別の根本的なシステムをわれわれがまだ予見できないでいるだけなのかどうかも、わかりません。ただ、人間の本性とこれまでの歴史を考察したかぎりでは、それが最終解決ではないかという問いを提起すべき理由がある。それはわれわれの社会の基本にかかわる重要な問いである以上、現代の中心的問題として問われるべきだと思ったのです。それが私の議論の核心です。


浅田) ミネルヴァのフクロウは黄昏時に飛ぶ、とヘーゲルは言っています。何かを理解すること、それも、それまでの過程の必然的結果として目的論的に理解することは、それを終わったあとから見ることなのです。しかし、それは観念論的な倒錯ではないか。本当は終わりのない過程をそのつど終わったことにして考えているだけではないか。実際、「歴史の終わり」を、ヘーゲルはナポレオンによるイエナの戦いに見たし、コジェーヴは第二次世界大戦の終わりに見たし、あなたは冷戦の終わりに見たわけですが、これは同じ観念論的結論の絶えざる繰り延べのようにも見えます。


フクヤマ)しかし、私たちはみな同じことを言っているのだと思います。重要なのは、自由民主主義の原理がフランス革命によって打ち立てられ、ナポレオンによってヨーロッパに広められたということです。イエナの戦いは、それ自体として重要なのではなく、そのシンボルとして重要なのです。そして、コジェーヴの言ったのは、イエナの戦いに「歴史の終わり」を見たヘーゲルは基本的に正しかった、それ以後のさまざまな革命や世界大戦にもかかわらず、原理の面では本質的に何も変わっていない、ということでした。私の言っていることもコジェーヴとまったく同じで、一九八九年という年に特別なことが起こったと言っているのではないのです。もちろん冷戦の終わりは大きな歴史的事件ですが、世界史を通してみればこの規模の事件は他にもたくさんあります。ただ、そこで起こったことは、フランス革命の提起した解決が二百年をへてなお唯一ひろく受け入れられる解決だということがはっきりした、ということなのです。


浅田 )ただ、 あなたの場合、それも仮説であって、結論ではない。


フクヤマ)そう、私の議論は基本的にオープンです。歴史は終わったと信ずべき強力な根拠があるけれど、それが誤った結論である可能性にも目を閉ざしてはならない。こう言うだけでは哲学的に満足のいく答えとは言えないかもしれません。しかし、知的な誠実さから言えば、私はそれが唯一可能な答えだと思うのです。

(「SAPIO 一九九三年一月一四日号。一月二八日-二月一一日合併号。二月二五日号)




五歳違いだけのフクヤマと浅田だが、浅田はフクヤマにかなり突っ込んだ批判的問いを提出しており、いま読んでも面白い。ボクはこの対話を読んで、『歴史の終わり』はもう読まなくていいな、と思ってしまったね。


ま、でも世界は最後の人間(末人)ばかりになっちまったというのは、政治学者でも一緒だな、ジジェクの観点では、と付記しておくが。


フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』をバカにするのが流行だが、現実には左翼でさえフクヤマ主義者ではないだろうか。資本主義の継続、国家機構の継続を疑う者はいない。かつては「人間の顔をした社会主義」を求めたのに、今の左翼は「人間の顔をした世界資本主義」で妥協する。それでいいのか?(ジジェク インタビュー、by AMY GOODMAN, 2008


あの同窓会の四人組ーー相対的にはきわめて優れた政治学者たちだがーー、連中も末人だよ、結局。浅田彰も自らを末人に過ぎないと言ってるいる。



私は君達に言う、踊る星を生むことが出来るためには、人は自分のうちに混沌を持っていなければならない。私は君達に言う、君達は自分のうちにまだ混沌を持っている。


Ich sage euch: man muß noch Chaos in sich haben, um einen tanzenden Stern gebären zu können. Ich sage euch: ihr habt noch Chaos in euch.


災いなるかな! 人間がいかなる星も生まなくなる時代が来る。

災いなるかな! 自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る。


Wehe! Es kommt die Zeit, wo der Mensch keinen Stern mehr gebären wird. Wehe! Es kommt die Weit des verächtlichsten Menschen, der sich selber nicht mehr verachten kann.


見よ! 私は君達に末人を示そう。

『愛って何? 創造って何? 憧憬って何? 星って何?』こう末人は問い、まばたきをする。


Seht! Ich zeige euch den letzten Menschen.

«Was ist Liebe? Was ist Schöpfung? Was ist Sehnsucht? Was ist Stern» – so fragt der letzte Mensch und blinzelt.


そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はノミのように根絶できない。末人は一番長く生きる。


Die Erde ist dann klein geworden, und auf ihr hüpft der letzte Mensch, der Alles klein macht. Sein Geschlecht ist unaustilgbar, wie der Erdfloh; der letzte Mensch lebt am längsten.


『われわれは幸福を発明した』こう末人たちは言い、まばたきをする。

彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。


«Wir haben das Glück erfunden» – sagen die letzten Menschen und blinzeln.

Sie haben den Gegenden verlassen, wo es hart war zu leben: denn man braucht Wärme. Man liebt noch den Nachbar und reibt sich an ihm: denn man braucht Wärme.


病気になることと不信をもつことは、かれらにとっては罪である。かれらは歩き方にも気をくばる。石につまずく者、もしくは人につまずく者は愚者とされる。


Krankwerden und Mißtrauen-haben gilt ihnen sündhaft: man geht achtsam einher. Ein Thor, der noch über Steine oder Menschen stolpert!


ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。


Ein wenig Gift ab und zu: das macht angenehme Träume. Und viel Gift zuletzt, zu einem angenehmen Sterben.


かれらもやはり働く。というのは働くことは慰みになるからだ。しかしその慰みが身をそこねることがないように気をつける。


Man arbeitet noch, denn Arbeit ist eine Unterhaltung. Aber man sorgt daß die Unterhaltung nicht angreife.


かれらはもう貧しくなることも、富むこともない。両者ともに煩わしすぎるのだ。もうだれも統治しようとしない。服従しようとしない。両者ともに煩わしすぎるのだ。


Man wird nicht mehr arm und reich: Beides ist zu beschwerlich. Wer will noch regieren? Wer noch gehorchen? Beides ist zu beschwerlich.


飼い主のいない、ひとつの畜群! 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。考え方が違う者は、自ら望んで気ちがい病院に向かう。


Kein Hirt und Eine Heerde! Jeder will das Gleiche, Jeder ist gleich: wer anders fühlt, geht freiwillig in's Irrenhaus.


「むかしは、世界をあげて狂っていた」ーーそう洗練された人士は言って、まばたきする。


«Ehemals war alle Welt irre» – sagen die Feinsten und blinzeln.


かれらはみな怜悧であり、世界に起こったいっさいのことについて知識をもっている。だからかれらはたえず嘲笑の種を見つける。かれらも争いはする。しかしすぐに和解するーーそうしなければ胃をそこなうからだ。


Man ist klug und weiß Alles, was geschehn ist: so hat man kein Ende zu spotten. Man zankt sich noch, aber man versöhnt sich bald – sonst verdirbt es den Magen.


かれらはいささかの昼の快楽、いささかの夜の快楽をもちあわせている。しかし健康をなによりも重んずる。


Man hat sein Lüstchen für den Tag und sein Lüstchen für die Nacht: aber man ehrt die Gesundheit.


「われわれは幸福を発明した」ーーそう末人たちは言う。そしてまばたきする。ーー

«Wir haben das Glück erfunden» – sagen die letzten Menschen und blinzeln –

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「序」第5節)



…………………


ジジェクにとってはアフガニスタンのタリバンーー、連中はヤクザ集団でありうるがーーは厄災を起こしたんだよな、最後の人間ではない出来事を(事実上、日本にジジェクを導入したのは浅田彰だが、彼は2000年前後からこのジジェクの立場は受け入れることが難しいと言っている)。


われわれの戦いの相手は、現実の堕落した個人ではなく、権力を手にしている人間全般、彼らの権威、グローバルな秩序とそれを維持するイデオロギー的神秘化である。この戦いに携わることは、バディウの定式 「何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 」を受け入れることを意味する。つまり、たとえそれが大破局に終わろうとも、あれら終わりなき功利-快楽主義的生き残りの無気力な生を生きるよりは、リスクをとって真理=出来事への忠誠に携わったほうがずっとマシだということだ。この功利-快楽主義的生き残りの仕方こそニーチェが「最後の人間(末人)」と呼んだものだ。(ジジェク『終焉の時代に生きるLiving in the End Times 2010年)

現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である[the name of the ultimate enemy today is not capitalism, empire or exploitation, but democracy]というバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。 (ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010年)


タリバンの成功、フーコーがイランにおいて探し求めたもの(そしてこの今、アフガニスタンにおいて我々を魅惑しているもの)は、どんな宗教的原理主義を伴った事例ではなく、たんにより良い生のための集団的関与だ。

the success of Taliban, …what Foucault was looking for in Iran (and of what fascinates us now in Afghanistan), an example which did not involve any religious fundamentalism but just a collective engagement for a better life. 


世界資本主義の大勝利の後、この集団的関与の精神は抑圧された。そして今、この抑圧された立場は宗教的原理主義の装いの下に回帰しているように見える。

After the triumph of global capitalism, this spirit of collective engagement was repressed, and now this repressed stance seems to return in the guise of religious fundamentalism.


われわれは抑圧されたものの回帰を想像しうるだろうか、その集団的な解放関与の正当的な形式のなかに? それを想像しうるだけではない、既にその偉大な力でわれわれの扉を叩いている。

Can we imagine a return of the repressed in its proper form of collective emancipatory engagement? Indeed. Not only can we imagine it, it is already knocking on our doors with great force. Slavoj Zizek: The real reason why the Taliban has retaken Afghanistan so quickly, which Western liberal media avoids mentioning, 17 Aug, 2021



上に、浅田彰はジジェクの立場は受け入れることが難しいと言っているとしたが、厳密には次のような言い方をしている。


悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実 への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。(浅田彰「パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?ージジェクの『信仰について』」2001年)