ラカンのファルスというのは、生身の男性についている徴としてのオチンチンという意味もないではないが、中期以降のラカンにとってのファルスとは欠如あるいは言語のことだ。
ファルスはそれ自体、主体において示される欠如の印以外の何ものでもない[ (le) phallus lui-même … n'est rien d'autre que ce point de manque qu'il indique dans le sujet. ](Lacan, LA SCIENCE ET LA VÉRITÉ, E877, 1965) |
ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。[Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. ] (Lacan, S18, 09 Juin 1971) |
この言語を象徴界(あるいは大他者)という。 |
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
だから言語秩序(象徴秩序)とは「ファルス秩序」のことであり、このファルスが欠如だというのは次のことだ。 |
象徴システムにおいて、このシステムが機能するための構造的に決定づけられた開口部や欠如の必要性は、ゲーデルの不完全性定理によって論理的に明証された。 この同じ必要性を明示するためのより簡潔な方法は、玩具、いわゆるスライディングブロックパズルを通して獲得しうる。人がブロックを正しく並べかえたいのなら、それらをグルリと移動させなければならない。移動させるためには、開口部、すなわち一つの要素が欠如している空隙が必要である。さもなければ、全ては文字通りかつ比喩的にも立ち往生する。欠如と移動の可能性(換喩を想起しよう)はどの象徴システムにおいても本質的な特徴である。(PAUL VERHAEGHE, A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009) |
ファルスの欠如があるゆえに言語は機能している。他方、根にある享楽とは穴のことであり、穴とは身体のこと。もっともイマジネールな身体は言語秩序に属し、ここでの身体はリアルな身体、フロイトの欲動のことーー《欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou》.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
次のように区分されることもあるが、上辺二つと下辺二つは同じ審級にあり、言語の身体、リアルな身体ということである(そもそもイマジネールはシンボリックによって構造化あるいは支配されており、欲動=享楽である)。
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
欲望とは基本的に言語秩序内にあるもので、「現実界の享楽の穴」から「象徴界の言語の欠如」への移行の場に欲望はある。
享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |
欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage] (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
そして言語の欠如と身体の穴のより具体的な相違は次の内容。
我々は後期ラカンの教えをこう要約することができる。すなわち、すべての享楽は穴との関係性のなかに位置づけられると[c'est que toute jouissance - se pose par rapport au trou]。〔・・・〕 穴の概念は、欠如の概念とは異なる[c'est le concept de trou en tant que différent de celui de manque.]。この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は場の秩序に従う[Le manque au contraire obéit à l'ordre des places ]。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している》場を占めることができる。人は置換することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する[La permutation veut dire que le manque est fonctionnel.]。 |
欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないことだから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった審級である。 ちょうど反対のことが穴について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅[la disparition de l'ordre, de l'ordre des places]を意味する。穴は、組合せ規則の場自体の消滅である「Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire]。 この穴が、斜線を引かれた大他者[grand A barré (Ⱥ) ]の最も深い価値である。ここでのȺ は大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴、組合せ規則の消滅を意味する[Et c'est la valeur la plus profonde, si je puis dire, de grand A barré. Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre mais veut dire à la place de l'Autre un trou, la disparition de la combinatoire. ] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001) |
ジャック=アラン・ミレールはしばしば次の図を示しているが、この底辺ーー斜線を引かれた享楽ーーが、身体の穴であり、上辺の大他者Aは言語の欠如のこと。
ところでミレールは対象a付きの図も示している。
ラカンは上辺の大他者Aに相当するものを穴埋め[bouchon]とも言ったが、上の図が示しているのは、穴埋めの残滓(a)が常にあるということである。
ここではラカンのセミネールⅩから一連の発言を列挙しよう。
享楽は残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
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フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,… absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
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対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
このラカンの発言はーーフロイトには固着、異者をめぐる記述がふんだんにあるとはいえーー、なによりもまずフロイトの次の二文に収斂する。 |
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, ](フロイト『抑圧』1915年、摘要) |
常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
リビドー固着の残滓、これが異者(異者としての身体[Fremdkörper] )である。 |
いわゆる享楽の残滓 [reste de jouissance]。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だが基本的にそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって触発され、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。 固着点はフロイトにとって、分離されて発達段階の弁証法に抵抗するものである[C'est-à-dire ce qui chez Freud précisément est isolé comme résistant à la dialectique du développement. ] 固着は、どの享楽の経済においても、象徴的止揚に抵抗し、ファルス化をもたらさないものである[La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante, ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.] (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III- 5/05/2004) |
残滓…現実界のなかの異者概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
したがって言語秩序に属する欲望には、常に享楽の残滓(身体の残滓)がある。
これはある意味で当たり前のことであり、欲望は身体(享楽の身体)に支えられていない筈はない。
とはいえフロイトラカンにおいて、欲望と享楽の具体的な相違はリビドーの固着(欲動の固着=享楽の固着)の有無にかかわることには最大限の注意が必要である。
享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008) |
人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
現代臨床ラカン派においてなによりも重要なのは固着である。
固着とは、フロイトが原症状と考えたものである[Fixations, which Freud considered to be primal symptoms,]( ポール・バーハウ&フレデリック・デクラーク Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq , Le Sinthome or the feminine way., 2002) |
分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
対象aには何種類かの意味があるが、最も重要な対象aは、固着である。 |
無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97) |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。 le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015) |
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