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2021年10月28日木曜日

未知のシーニュに強制されての愛

 


プルーストの『見出された時』には、「強制する(forcer)」という語が頻出する。それは例えば次のような形で使われている。


もし現時の場所が、ただちに勝を占めなかったとしたら、私のほうが意識を失ってしまっただろう、と私は思う、なぜなら、そうした過去の復活[résurrections du passé ]は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され[Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ[trébucher entre eux et les lieux présents]、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときに感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。(プルースト『見出された時』)


ここには「失われた時の記憶」で示した、心的痛みをともなう「遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくる」レミニサンス感覚が書かれている。


「強制する(forcer)」が頻出するということを教えてくれたのは、ドゥルーズである(邦訳では「強制」となっていない場合が多い。たとえば冒頭の文は井上究一郎訳では「余儀なくされて」となっている)。私はドゥルーズ のよい読書ではまったくないが、彼の残した書のなかでは『プルーストとシーニュ』を特権的に好む。


『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの[l'involontaire]に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの[force à penser]、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である[plus important que le philosophe, le poète]。〔・・・〕『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』結論「思考のイマージュ」の章、第2版、1970年)


この文の後、「未知のシーニュ(signes inconnus )」をめぐるプルースト文がとても長く、二頁にもわたって引用されている。引用が豊富なのもこの書の魅力だ。


井上究一郎訳では、「未知の表徴」と訳されている部分の前後である。


未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)[ces signes inconnus (de signes en relief, semblait-il, que mon attention explorant mon inconscient allait chercher, heurtait, contournait, comme un plongeur qui sonde)](プルースト『見出された時』)


この前後が長く引用された後、ドゥルーズ はふたたびこう書いている。


思考を強制するものはシーニュである。シーニュは、ひとつの出会いの対象である。しかし、思考させる必然性を保証するものは、まさにこの出会いの偶然性である。Ce qui force à penser, c'est le signe. Le signe est l'objet d'une rencontre; mais c'est précisément la contingence de la rencontre qui garantit la nécessité de ce qu'elle donne à penser.  (ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』結論「思考のイマージュ」の章)




次の箇所をドゥルーズ は引用していないが、「未知のシーニュ」とは、われわれの暗所にあるものである。


われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。Ne vient de nous-même que ce que nous tirons de l'obscurité qui est en nous et que ne connaissent pas les autres. (プルースト「見出された時」)


したがって、未知のシーニュは、対象の鞘ではなくわれわれ自身の内部にのびている何ものかを示していることになる。


人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。


それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに[de la nature, de la société, de l'amour, de l'art lui-même]、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」)



この箇所を私は何度も引用してきた。この私自身の内部にのびているもの、今回、これをはじめて「未知のシーニュ」と関連づけて記述するが、この未知のシーニュは決定的である。


だがより具体的には何だろうか。ーーおそらく「身体の記憶」である。あるいは「身体の記憶の固着」である。


もしそうなら、フロイトラカン観点からは、すべての人間の愛の条件である。


忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)


フロイトが Liebesbedingung と呼んだもの、つまり愛の条件、ラカンの欲望の原因がある。これは固有の徴ーーあるいは諸徴の組み合わせーーであり、愛の選択において決定的な機能をもっている。Il y a ce que Freud a appelé Liebesbedingung, la condition d’amour, la cause du désir. C’est un trait particulier – ou un ensemble de traits – qui a chez quelqu’un une fonction déterminante dans le choix amoureux.  (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)

われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)

「享楽の対象」は、「防衛の原因」かつ「欲望の原因」としてある。というのは、欲望自体は、享楽に対する防衛の様相があるから。l'objet jouissance comme cause de la défense et comme cause du désir, en tant que le désir lui-même est une modalité de la défense contre la jouissance.(J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3)


ここでジャック=アラン・ミレールが言っているのは、享楽の対象としての「愛の条件」を原因として、何ものかを愛している人もいれば、それを防衛してーー防衛とは抑圧のことであるーー、何ものかを愛して人もいるということである。


とはいえいくら抑圧しても愛の条件の固着は抑圧しきれない。ーー《享楽の抑圧、欲動の抑圧は欲動要求を黙らせるには十分でない[que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. ](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)、常に固着の残滓がある[参照]。


ここで簡潔に次の文を掲げておこう。


愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)



私は断言するつもりはない。だがプルースト自身の記述を追っていくと、「未知のシーニュ」は、フロイトラカンにおける「愛の条件の固着」に限りなく近似するのは確かである。


ある人へのもっとも排他的な愛は、常になにか他のものへの愛である。L’amour le plus exclusif pour une personne est toujours l'amour d’autre chose (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


これは愛する人への愛だけに限らないことに注意しよう、自然への愛、芸術への愛、学問への愛、宗教への愛等々、すべて同じであり、何か他のものへの愛がその条件にある。われわれはここに精神を集中しなくてはならない、ーーというのがプルーストの教えである。


通常の愛に関してはプルースト はこう言っている。


ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. (プルースト「逃げ去る女」)


この文に限っていえば、フロイトにおける、自己身体の出来事[Erlebnisse am eigenen Körper ]=自我への傷[ Schädigungen des Ichs ]=リビドーの固着[Fixierung der Libidoと等価であり、ラカン派の享楽の固着[la fixation de jouissance]である。プルーストの問いは、これは人物への愛に限らないことである。


私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美 la beauté de Balbec は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。


またしてもまんまとだまされたくはなかった Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。(プルースト『見出された時』)


というわけでジュネ=ジャコメッティを引用して終える。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)