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2021年10月9日土曜日

わたしは憧れる あなたがたの凡庸さに

 


むかし彼女のツイートを読んでさ、2015年の初めにメモしてるから、もう6年以上前だな


暁方ミセイ @kumari_kko


ワ~ッとはしゃいだあと、よく、その賑やかさが妙に不快に思い出されてしまうよ。実際は楽しく何も問題なんかなくても。たくさんの声の高低、ざわめきから飛び出して聞こえる不愉快な単語、目つき、表情、繰り返し繰り返し、ぐちゃぐちゃになって自分の声でかき消す。


全然なにもわかってもらえてないし、だからといって言い訳みたいに話すつもりもないし、自ら話すほどわかってもらえてないわけではないかもしれない。誰かから見たわたしは、自分で思うわたしと同じくらい、あるいはそれ以上に、わたしなんだろうなあ。


わたしが自分で思うわたしは、みんなと同じ「わたし」なんだ。複雑で、闇の中に色彩がチラチラ飛び交っているような形をしていて、開いていて輪郭がない。だからわたしは、誰も否定しないし、誰もばかにしたりしないよ。恐ろしい、宇宙よりもわけのわからない場所に、意識をおいてる生き物みんな。


どこか、山の奥かどこかに、見えなくなりたいなあと思うことはある。でもいずれは、望まなくてもそうなるから、いまはやる。やれることやる。そんな感じ。



高校時代にイカれたトニオ・クレーゲルみたいなこと言ってる人だと思ったよ。


認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同 じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうからだ。〔・・・〕

私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、『人間』を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。-けれども羨みはしません。なぜならもし何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。 すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの感情から流れ出てくるのです。(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』)



あのときから彼女に惚れたんだ、いま生きている詩人で唯一注目している人だよ。




ハイネに次のフレーズがある。


病こそはたぶん、創造のあらゆる

衝動の究極の根拠であった。

創作しつつ私は治癒することができたし、

創作しつつ私は健康になった。


Krankheit ist wohl der letzte Grund  

Des ganzen Schöpferdrangs gewesen;  

Erschaffend konnte ich genesen,  

Erschaffend wurde ich gesund.


――ハイネ


まずはこうだろうなあ、

でも健康になったらどうなるんだろう?


フロム=ライヒマンが、分裂病者の最善の改善像は芸術家だといっていますが、私はそうは思いません。そんなに社会には芸術家は要らないわけですし、さらに治ると平凡な作品になってしまうので、周囲がそれ以上治らないように配慮するわけです。リルケは、才能を無くするということでフロイトの治療を断わられたようです。もっとも、フロイトの治療を受けたほうがよかったかどうか分かりません。フロイトは、治療を探求より優先させる人かどうかわかりません。あいだに立ったハンス・カロッサがやめておけとリルケに言ったという説もあります。(中井久夫「分裂病についての自問自答」1992年)