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2021年10月23日土曜日

宗教は賎民の関心事である(ニーチェ)


宗教は賎民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affairen](ニーチェ『この人を見よ』1888年)



なぜニーチェは宗教は賎民の関心事と言ったのか。フロイトはこのニーチェを「自我理想」概念ーーラカンの「父の名」に相当するーーを使って、たんに宗教に限らないレベルに至るまでに、形式化した。



原初の集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)





















この図は、外的対象を自我理想として取り入れ[Introjektion]、各自我はその自我理想を基盤として互いに同一化することを示している。この自我理想は、「理念」、たとえば正義という理念の場合もありうるし、さらに「憎悪」も理念として機能する。



理念[ führende Idee]がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 [positive Anhänglichkeit ]と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合 [Gefühlsbindungen]を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)




さらに言えば、究極的には言語自体が自我理想、つまり父の名として機能する。


言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)

言語は父の名である[C'est le langage qui est le Nom-du-Père]( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)


例えば日本民族は(厳密さを期さずに言えば)日本語によって同一化している集団であると言いうるだろう。そして、この日本語との同一化によって、他言語を使用する民族とは世界を異なった目で見ている、ということは十分にありうる。


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。(ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1886年)




とはいえ、今はこの話をもうしないでおき、通常の、自我理想として機能する指導者、ときにカリスマ性を帯びる指導者のもとでの集団の特徴をめぐるフロイトの記述を掲げる。



集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。Die Masse ist außerordentlich beeinflußbar und leichtgläubig, sie ist kritiklos, 〔・・・〕集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。Wer auf sie wirken will, bedarf keiner logischen Abmessung seiner Argumente, er muß in den kräftigsten Bildern malen, übertreiben und immer das gleiche wiederholen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)


集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動は異常にたかまり、彼の知的活動[ intellektuelle Leistung] はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 [Triebhemmungen] が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。


この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原集団 [primitiven Masse」 における情動興奮[Affektsteigerung]と思考の制止[Denkhemmung] という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)



要するに、集団は賎民化あるいは衆愚化する傾向にあり、ときに欲動の暴力のなすがままになる。これが信者の集団の特徴である。



信者の共同体…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。


もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである[Im Grunde ist ja jede Religion eine solche Religion der Liebe für alle, die sie umfaßt, und jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe. ](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)



このフロイトの文はニーチェの次の文とともに読むことができる。


ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての他の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然りである[Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott.](ニーチェ『善悪の彼岸』第67番、1986年)



そしてラカンはこう言った。


フロイトの『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。(ラカン,S8,28 Juin 1961)




どの集団でもよい、指導者の容貌を想起してみよう。彼らのほとんどは、その多寡はあれ、ーーつまり小物に過ぎないか本物の近似物であるかの相違はあるにしろーーヒトラー化していないだろうか?


もちろん次の疑いももたねばならない。つまり精神分析運動のリーダーとして振舞わざるを得なかったフロイト自身、小粒のヒトラー化がいくらかあったのではないかと。


……………


なおここでのフロイトの思考は、ほぼ同時期に書かれたナチスの天才理論家カール・シュミットの思考と驚くほど似通っている。


民主主義とは、治者と被治者と同一性、支配することと支配されることの同一性、命令することと従うことの同一性である。Demokratie (...) ist Identität von Herrscher und Beherrschten, Regierenden und Regierten, Befehlenden und Gehorchenden(カール・シュミット『憲法論』1928年)

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)



シュミットにとっては、民主主義はファシズム、独裁制と同居しうる。


ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義が独裁への決定的対立物ではまったくないのと同様、独裁は民主主義の決定的な対立物ではまったくない。Diktatur ist ebensowenig der entscheidende Gegensatz zu Demokratie wie Demokratie der zu Diktatur.“ (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1926年版)



上に示してきたニーチェフロイト語彙で言えば、衆愚化政治、賎民化政治とならないデモクラシーの可能性はあるのか。これもひとつの大きな問いである。



権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに群衆Pöbelの値が騰貴してくる。そしてついには群衆の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー。

Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: `siehe, ich allein bin Tugend!` -〔・・・〕


ああ、あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気!

allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem -: pfui, unter dem Gesindel leben,  - pfui, unter dem Gesindel die Ersten zu bedeuten! Ach, Ekel! Ekel! Ekel! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」1885年)