ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時に幸福にしてくれたのは何であったか[was hast du bis jetzt wahrhaft geliebt, was hat deine Seele hinangezogen, was hat sie beherrscht und zugleich beglückt?]」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。 尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則[das Grundgesetz deines eigentlichen Selbst].を示してくれるであろう。 |
そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。 なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ[denn dein wahres Wesen liegt nicht tief verborgen in dir, sondern unermeßlich hoch über dir, oder wenigstens über dem, was du gewöhnlich als dein Ich nimmst]. (ニーチェ『反時代的考察』第3篇第1節、1874 年) |
私は、《まことに神の子であった Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.》 |
然るに汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり[tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo] (アウグスティヌス『告白』) |
われら糞と尿のさなかより生まれ出づ[ inter faeces et urinam nascimur](アウグスティヌス『告白』) |
Ingemisco young Pavarotti, Karajan 1967 |
芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである。Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes (ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 ) |
すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である。daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste... (ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』1888年) |
私はたいそう孤独な生い立ちだった。おまけに物心ついて以来、性的な事柄に悩まされつづけてきた。あれは十六歳頃のことだ、***海岸で、シモーヌという、私と同い年の娘と出遇った。お互いの家族が遠縁関係にあることがわかったとき、ふたりのあいだは急速に親密の度を加えた。知り合って三日後、シモーヌと私は彼女の別荘にふたりきりで残された。彼女の方は糊のきいた白襟の黒っぽい学生服を着込んでいたのを覚えている。彼女と向かい合っているときにこちらが感じるそわそわした思い、それを彼女のほうでも分かち合っていることに私はうすうす気づきはじめていた。この日はとくに落ち着かず、学生服の下に、彼女がなにも着込んでいないことを私は期待するのだった。 |
膝の上まである黒い絹靴下をはいているのはわかった、がお尻のあたりまでは覗けなかった(シモーヌを相手に私はよくこのお尻という言葉を使ったが、性の用語のなかでもこれはとりわけ素晴らしいものに思えるのだった)。学生服を後ろからちょろっと捲り上げるだけで、彼女の淫らな部分が覗けそうだった。 |
たまたま、廊下の片隅に猫用のミルクを入れた皿が置かれていた。 「お皿は、お尻をのっけるためにあるのよ」シモーヌが言い出した。「賭けをしない?あたしこのお皿の上に坐ってみせるわ。」 「坐れるもんか」私はやり返した、息をはずませて。 |
恐ろしく暑い日だった。シモーヌはお皿を小さな床几の上に据えると、私の真正面に陣取った。私の顔をまともに見つめながら、徐々に彼女はしゃがみ込むのだった、ほてった臀を冷たいミルクの中に浸すさまはスカートのかげになって私には見えなかったが。こちらは頭に血がのぼり、身をわななかせながら、 彼女の前に立ちつくしていた。いっぽう彼女は私の硬直した竿が半ズボンを突っ張らせるのを見つめたいた。そこで私は彼女の足もとに腹ばいになった、が彼女のほうは身じろぎもしなかった。こうしてはじめて私は、白いミルクの中で冷やされた彼女の < ピンク色と黒色の肉体 chair rosé et noire > を目にしたのである。どちらも同じように興奮し、私たちはいつまでも身じろぎもせずにとどまっていた。 |
突然、彼女は立ち上がった。ミルクが腿をつたって靴下にまで垂れるのがみえた[le lait coula jusqu’à ses bas sur les cuisses]。私の頭上に突っ立ったまま彼女は、小さな床几に片足を掛け、濡れたハンカチで丹念に拭き取るのだった、そして私のほうは床の上で身もだえしながらズボンごしに自分の竿を夢中でしごきまくるのだった。こうして私たちはほとんど同時気をやることに成功したのだ、お互いに一指も触れ合うことなく[Nous arrivâmes à la jouissance au même instant, sans nous être touchés l’un l’autre]. |
自慰を繰り返したくて矢も盾もたまらず、家へ駆け戻った。 そして、あくる日の午後は、眼のふちにひどい隈をこさえていた。 シモーヌは私の顔をまじまじと見つめ、突然私の肩に顔を埋めると、 真剣な口調でこう言うのだった。 「あたしをおいてきぼりにして独りで済ましちゃいや[Je ne veux plus que tu te branles sans moi.]」 (バタイユ『眼球譚』1928年) |
ーー《「あたしのぼろぎれ見たい?[Tu veux voir mes guenilles ? ]」…「ほらね。あたしは神よ…[Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...]」》(ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ Madame Edwarda』1937年)
君はおのれを「我 」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる智なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである。"Ich" sagst du und bist stolz auf diess Wort. Aber das Grössere ist, woran du nicht glauben willst, - dein Leib und seine grosse Vernunft: die sagt nicht Ich, aber thut Ich. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者 Von den Verächtern des Leibes」 1883年) |
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「神様があらゆる所に居るって本当?」と小さな少女が母親に尋ねた。「でもそれは無作法な事だと思うわ」ーー哲学者にとってはヒントだ! „Ist es wahr, dass der liebe Gott überall zugegen ist?“ fragte ein kleines Mädchen seine Mutter: „aber ich finde das unanständig“ ― ein Wink für Philosophen! |
自然が謎と色とりどりの不確実性の背後に身を隠した時の蓋恥は、もっと尊重した方が良い。恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女ではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?… Man sollte die Scham besser in Ehren halten, mit der sich die Natur hinter Räthsel und bunte Ungewissheiten versteckt hat. Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年) |