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2021年11月10日水曜日

窪道でのさんざしの藪


連想を破ることだ

意識の解釈をしない

コレスポンダンスも

象徴もやめるのだ

さんざしの藪の中をのぞくのだ

青い実ととび色の棘をみている

眼は孤立している


ーー西脇順三郎



突然、幼時のある甘美な回想に胸を打たれて、私は小さな窪道のなかに立ちどまった「Tout d'un coup dans le petit chemin creux, je m'arrêtai touché au cœur par un doux souvenir d'enfance : ]、私は気づいたのであった、ふちの切れこんだ、色つやの美しい葉の、しげりあって、道ばたにのびでているのが、さんざしのしげみだということに、それは春のおわりもとっくに過ぎて、ああ、その花も散ってしまったさんざしの藪[un buisson d'aubépines défleuries]なのであった。私のまわりには、昔のマリアの月や、日曜日の午後や、忘れられたいろいろな信仰や過失などの雰囲気がただよってきた。私はその雰囲気をとらえたかった。私は一瞬のあいだ立ちどまった、するとアンドレは、私の心をやさしく占って、私がその瀧木の葉とひととき言葉を交すのを、そっと見すごしてくれた。私は花たちの消息を、それらの葉にたずねた、そそっかしくて、おしゃれで、信心深い、陽気な乙女たちにも似た、あのさんざしの花たちの消息を。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


窪道のなかに立ちどまるだけだ

ただあの湿った匂を嗅ぐだけだ


わたしたちは生がリアルなものだと信じていない、なぜなら忘れてしまっているから。けれども古い匂を嗅いだら、突如として酩酊する。De sorte que nous ne croyons pas la vie réelle parce que nous ne nous la rappelons pas, mais que nous sentions une odeur ancienne, soudain nous sommes enivrés; (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)


幼い日の古い離れ座敷の匂

母の膝上での耳かきの匂

森の鞘のチーズの匂だ


菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)


なぜ生垣の樹々になる実が

あれ程心をひくものか神々を貫通

する光線のようなものだ 


神々はある。だが神はない![dass es Götter, aber keinen Gott giebt! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表」)

女なるものは存在しない。女たちはいる[La femme n'existe pas. Il y des femmes](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)


閉ざされた千の壺[mille vases clos](プルースト『見出された時』)

をこじ開けねばならない

「汝を愛するからだ  おお永遠よ」

路ばたにマンダラゲが咲く



妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。〔・・・〕そしさて帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。〔・・・〕


――ギー兄さんと森の鞘で、と青年はいって、アハッとヒステリックな具合に笑った、とオユーサンは不思議そうにつたえたが、鞘は「在」で女子性器の隠語なのである。あんたがヤッテおるのを見たが、ああいう場所でタワケられては、村が困る。あんたからわしに相談したいなら乗らんでもないが…… (大江健三郎『懐かしい年への手紙』)


生垣にはグミ、サンショウ、マサギ

が渾沌として青黒い光りを出している

この小径は地獄へ行く昔の道

プロセルピナを生垣の割目から見る

偉大なたかまるしりをつき出して

接木をしている