前回、最後に主体の原像について少しだけ記したが、より一般的にはこう言われる。 |
ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.] (Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012) |
まずリアルな欲動要求がある。 |
欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
ところが現実[Realität]はリアル[Reales]を拒否する(「リアル/リアリティ」の相違は、フロイトラカンにおいて「言語外/言語内」)。したがって自我分裂が起こる。 |
欲動要求と現実の拒否のあいだに矛盾があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. Der ganze Vorgang erscheint uns so sonderbar, weil wir die Synthese der Ichvorgänge für etwas Selbstverständliches halten. Aber wir haben offenbar darin unrecht. Die so außerordentlich wichtige synthetische Funktion des Ichs hat ihre besonderen Bedingungen und unterliegt einer ganzen Reihe von Störungen. (フロイト『防衛過程における自我分裂 (Die Ichspaltung im Abwehrvorgang)』1939年) |
ここで、現実によって拒否されるリアルな欲動要求とはより何か、という問いが生まれる。 |
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エスの力[Macht des Es]は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。〔・・・〕エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は、心的な生の上に課される身体的要求を表す。 Die Macht des Es drückt die eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesens aus. Sie besteht darin, seine mitgebrachten Bedürfnisse zu befriedigen. Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs […] Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年 |
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欲動の身体的要求とは何よりもまず喪われた対象を取り戻すことだ。 |
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母の喪失というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年) |
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このあたりもラカンはフロイトに実に忠実である。享楽の対象としての母なるモノは喪われた母の身体なのだから。 |
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享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要) |
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母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノdas Dingの場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding. ](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
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モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,] (Lacan, S7, 20 Ja |
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結局次の二文に行き着く。 |
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以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, ](フロイト『快原理の彼岸』1920年) |
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人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年) |
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これが究極のリアルな欲動要求であって、当然、現実は拒否する。したがって「自我分裂=斜線を引かれた主体$」が生じる。これが前回引用した次の文の内実だ。 |
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主体はどこにあるのか? われわれは唯一、喪われた対象としての主体を見出しうる。より厳密に言えば、喪われた対象は主体の支柱である[Où est le sujet ? On ne peut trouver le sujet que comme objet perdu. Plus précisément cet objet perdu est le support du sujet] (ラカン, De la structure en tant qu'immixtion d'un Autre préalable à tout sujet possible, ーーintervention à l'Université Johns Hopkins, Baltimore, 1966) |
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例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. ](ラカン、S11、20 Mai 1964) |
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喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年) |
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自我はもちろんこんなことにはほとんど関わりない(フロイトの自我とはラカンのイマジネールな自我とは異なり、シンボリックな大他者(言語)も含んだ概念である、ーー《フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien]》 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)。そもそもラカンのイマジネールは常にシンボリックに支配されている[参照])。 だがエスの意志は異なる。 |
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自我の、エスにたいする関係は、奔馬[ überlegene Kraft des Pferdes]を統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 [Willen des Es ]を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
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忘れてはならない。フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノ la Chose と呼んでいる。[N'oublions pas …à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es est actuellement tout à fait oubliée. … j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose.] (ラカン, S7, 03 Février 1960) |
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フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009) |
ーーーという流れのなかにフロイトの自我分裂に基づくラカンの主体の原像がある。