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2021年11月28日日曜日

若き日のことども


谷崎の『青春物語』が青空文庫にごく最近入庫されていたので、初めて読んでみてたちまち魅了された。

『青春物語』は1932年から1933年にかけて「中央公論」に連載、2回目以降「若き日のことども」と改題されたそうだが、この題名だったらたぶんもっとはやく読んだかもしれない、文庫本ででも手に入れて。1886年生まれの谷崎であり、46歳から47歳にかけての随筆である。


当時の谷崎は数多くの傑作群を生んでいる。


1928年(昭和3年) 『卍』

1929年(昭和4年)『蓼喰ふ蟲』

1931年(昭和6年) 『吉野葛』『盲目物語』『武州公秘話』

1932年(昭和7年) 『倚松庵随筆』『蘆刈』

1933年(昭和8年) 『春琴抄』『陰翳禮讚』

1934年(昭和9年)『文章読本』


私は『吉野葛』を谷崎潤一郎の作品のなかで最も好む。谷崎自身、次のように書いているのを最近知った。


変ると云へば大正末年私が関西の地に移り住むやうになつてからの私の作品は明らかにそれ以前のものとは区別されるもので、極端に云へばそれ以前のものは自分の作品として認めたくないものが多い。戯曲はさうでもないが、小説の方は自分で全集を編むとなれば、これに組み込むことに大いに躊躇せざるを得ないものが少くない。「卍」以後は制作の態度に時々の違ひはあつても、さう根本的に違ふと云ふやうなことはないし、出来不出来はあつても全然認めたくないと云ふものはない。世評は知らぬが、この時期以後の作品で自分に愛着が深いのは「蓼喰ふ虫」と「吉野葛」であらう。(谷崎潤一郎「「細雪」回顧」1948年)

 

『青春物語』の話に戻れば、この随筆には1912年に書かれた京都旅行記「朱雀日記」からの引用が種々あり、それ以外にも主に1910年(明治43年)から1912年(大正元年)にかけての出来事が回顧されている。20余年前の出来事の回想である。



「日記」を見ると、それから私たちは富永町の「長谷仲」と云ふ家へ行つたとある。「やがて金子さんが『長谷仲』と記した家の格子を開けて、一同を中へ連れ込んだ。細長い土間を一二間行くと、左手が上り框で、『長町女腹切』の舞台で見たやうな、抽出しの付いた梯子段がある。天井でも、柱でも、板の間でも、悉く古びて黒光りに光つて居る。通されたのは二階の奥の、八畳か十畳程の座敷である。先づ座布団と脇息が出て、次に燭台が四つ運ばれると、スイツチを拈つて電燈を消して了ふ。寺の本堂の来迎柱の前に控へたやうで、蝋燭のはためく儘に、部屋の四壁へ明暗定まりなき影が浮ぶ。何となく西鶴の物語や近松の浄瑠璃本の男女の魂が綿々たる恨みを現代人に囁くやうな、因襲的な哀愁がじめ〳〵と歓楽の底を流れて来る。松本おこうと云ふ老妓が、錆を含んだ皺嗄れた喉で、京の地謡を唄つて聞かせる。………厚化粧の両頬へ臙脂を染めて、こつてりと口紅をさした富千代と云ふのが、都踊の帰るさに、絵の中から抜け出したやうな顔をして開け放した障子の板敷の闇へ梯子段の下から音もなく現れる。………いた〳〵しい程に細く痩せて、すつきりとした撫で肩の姿、梅幸の舞台顔に似て少し小柄な艶麗の面ざし。何の表情もなくおつとりと済まして据わつて居るだけで、座敷中が輝くばかり、まことに触らば消えなんとする風情である。富次と云ふ舞子が『屋島』を舞つた後で、此の女が舞ひを見せる」とある。(谷崎潤一郎『青春物語』1932-1933年)


この『青春物語』が引用している谷崎26歳時の『朱雀日記』(1912年)に『陰翳禮讚』の原点のひとつがあると言ってよいかもしれない。



だが私はほかには何に魅せられたのだろう。


さあって、とーー。


簡単には言えないな、でも固有名詞というのはいいね。学生時代、根津谷中近辺に住んだり、その後京都に10年ほど住んだので、そのあたりの地名が出てくると自らの回想に促されるということがある。またそれとは関係ない固有名詞だっていい、例えば名妓萬龍なんてね。







しかし、歌人としての、乃至青年作家としての恒川陽一郎の名を記憶してゐる者は稀であつても、名妓萬龍の愛人としての、彼女の最初の夫としての彼の名を知つてゐる者は、今も尚世間に多いことであらう。苟しくも男子たるもの何を以て声名を世に馳せようとも、平々凡々裡に朽ち果てるよりは結構なことに違ひないから、萬龍に依つて彼が一挙に艶名を轟ろかし、満天下の羨望の的となつたのも、当人に取つて定めし痛快事だつたであらう。思ふにその時分、大貫と私とは既に「新思潮」を登竜門として大いに文壇に活躍しようとする意気込みを示してゐたから、或はそんな事が彼の負けじ魂を刺戟したのではなかつたであらうか。私はそれがあの恋愛事件の動機であると云ふのでもないし、又さう云つたら故人の意志に反するでもあらうが、文学の方で失意の人となつた以上、実行の方面でわれ〳〵をあつと云はせてやらうと云ふやうな心持が、幾分潜在的にでも働いてゐなかつたとは断言出来ない。

それにはあの頃の「名妓」と云ふ言葉が持つ魅力を説明しないことには、到底今の青年諸君には合点が行かないかも知れない。何しろ当時の藝者と云ふものは、上は貴顕搢紳から下はわれ〳〵のやうな文学青年に至る迄、士農工商あらゆる階級の男性の愛を惹きつける、唯一の浪漫的な存在であつた。今の女給やダンサーや映画女優などの役目をした者も藝者であるが、しかし名妓と云はれる者の人気の素晴らしさと、見識の高さと、社会的地位とは、今の第一流のキネマ・スタアを持つて来ても遥かに及ばないであらう。




いやあ、恒川陽一郎はボクの若い頃みたいだな、「萬龍」には残念ながら惚れてもらえなかったが。


こゝで一寸、夫人の第一印象を語らせて貰ふと、私はその時、名妓と云はれる人の飾り気のない生地の姿に接したのであるが、彼女の顔立ちは写真から受ける感じと少しも違つてゐなかつた。だが唯一つ、写真で分らなかつたのはその眼の美しさであつた。大きく、冴えて、ぱつちりとして、研き抜かれたやうな光りがあつて、真に明眸とはあんな眸を云ふのであらう。藝者には往々お白粉焼けのした、疲れた地肌の人を見受けるが、彼女の皮膚はたるみなく張り切つて、澄んでゐた。欠点を云へば上背の足りないことだけれども、小柄で、程よく肥えてゐるのが、娘々して、あどけなくさへ見えるのであつた。彼女は所謂「意気な女」、―――すつきりした、藝者らしい姿の人ではなかつたけれども、黒人臭い病的な感じがなく、瀟洒と云ふよりは豊艶であつた。(病的と云へば、恒川の方がさうであつた。彼は嘗て肺尖を病んだことがあり、腺病質らしく痩せてゐて、背がヒヨロ長く、女よりも手足が白く、非常に光沢のある真つ黒な髪を持つてゐた)彼女は折々、真面目な相談が始まると、その大きな眸に一杯に憂ひの色を湛へて沈鬱な表情になつたが、次の瞬間には忽ち万事を忘れたやうにはしやぎ出した。

しかし私は、半日程話してゐる間に、彼女が実にしつかりした、腹もあり分別もある、聡明な婦人であることを看取した。彼女の頭は恐ろしく鋭敏に働いて、ほんの一寸した片言隻語の間にも冴えた閃めきを見せるのであつた。思ふに彼女があれ程の評判を取つたのは、その美貌の故であらうけれども、或は一層多くその聡明に負ふところがあつたかも知れない。大阪の八千代、―――後の菅楯彦氏夫人なども、非常に聡明であつたことは今も土地の人々が噂をするが、事実名妓と云はれる者に馬鹿な女は少いやうである、あつてもそんなのは、決して声名を長く持続することが出来ないのである。(谷崎潤一郎『青春物語』1932-1933年)



大阪の八千代とは「富田屋八千代」だそうだ。




この写真より次のほうがずっといいな



ーー《お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。》(徳田秋声『あらくれ』)



花見小路に何よりもまず魅せられたのかな


最初に花見小路の「菊水」へ行つて晩飯を食つた。今ではあの菊水の近所に茶屋や置屋が一杯に建て込んでしまつたけれども、当時は閑静な原つぱのやうな所にあの鳥屋が一軒だけ、ぽつんと建つてゐたやうに覚えてゐる。聞く所に依ればもとあの辺は建仁寺の地内であつたのを、祇園の女紅場が寺から借りるか買ふかして、ぽつ〳〵色里を彼処へ移すやうにしたので、初めは狐や狸などが出たものだと云ふ。して見ればちやうどあの時分が花見小路の開けかけた時であつたかも知れない。まだ重なお茶屋は大概四条通りの北、新橋方面にあつて、たゞ万亭が今と同じ所、花見小路の曲り角にあつたのを記憶するけれども、その外には女紅場(即ち祇園演舞場、都踊りをやる所)があつたぐらゐで、あの花見二階の奥の、八畳か十畳程の座敷である。(谷崎潤一郎『青春物語』1932-1933年)


どうして花見小路の「八千」、惚れてくれなかったんだろ、三日にあげず通ったのに。

ーー《むしょうに女がほしかった。股倉に手をやると、ヨシコが棒のようだった。熱い棒のようなヨシコを俺は手で握っていた。ヤチに会いたいとゴロマク(あばれる)ヨシコを俺は手でおさえつけていた。》(高見順『いやな感じ』)


実に薫り高い多佳子だった、


私はその時お多佳さんと並んで立つてゐたが、彼女の着物に焚きしめてある伽羅のかをりが若葉闇の下で強く匂つた。事実、伽羅の香といふものにあの時ほど魅力を感じたことはなかつた。(谷崎潤一郎『青春物語』1932-1933年)


五月のたわわな白い花のすこしただれたかおりのようで。