何度も掲げているが、こういったことを21世紀に入ってもまだ言っているポリコレフェミは単なる間抜けに過ぎない。
家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を侮蔑すべく育てあげるシステムのことである。(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』2010年) |
わたしは目を瞠(みは)った。「家父長制と闘う」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……。かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている。(上野千鶴子「セクハラ「ガマンしない娘たち」育てた誇り」朝日新聞2018年5月23日) |
もともと一神教でない日本という国で、全体として見れば「家父長制」がまともに機能しているわけがない。それさえ上野はいまだ分かっていない。
思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統い御するような権力が成立したことがなかった。〔・・・〕あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。〔・・・〕日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。〔・・・〕 |
見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。 日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年 ) |
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公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年) |
上野千鶴子は浅田をバカにし続けてきたが、強い尊敬を捧げているらしい中井久夫の次の文は、ーーこれまた中井がしばしば使う「選択的非注意 selective inatension」の対象なのかね。
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。〔・・・〕明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」2003年 『時のしずく』所収) |
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年) |
そもそも純粋な機能としての一神教的家父長制とは原初にある母権制に対する防衛システムに過ぎない。これは発達段階論的に考えればあまりにも明らかな事実だ。
家父長制とファルス中心主義は、原初の全能の母権制の青白い反影にすぎない。the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 1998年) |
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全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957) |
母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]〔・・・〕全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある[La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère,](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016) |
そして《母権的宗教においては、…しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴う》(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年)。成人言語入場以前の世界が、母なる女の支配、オルギアの世界だ。
日本は母なるオルギアの国だよ。これが柄谷や浅田などが言い続けてきた内実だ。もちろん支配の論理に陥りがちな「言語による統制」の審級にある一神教的父がいいわけではない。
ラカン語彙で言えば、ファルスなる梯子[échelle]ではなく父の原理としての脚立[escabeau]の構築が最も重要だ。
この脚立[escabeau」としての父の原理がラカンが次のように言っている意味であり、例えばアーレントと中井が言っている権威だ。 |
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976) |
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権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年) |
個を越えた良性の権威へのつながりの感覚(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
脚立としての権威の構築は、言うは易く構築はひどく困難だとはいえ、日本という国でもともと機能してない「ファルスなる家父長制」を叩いたらますますオルギアになってしまう。日本的ポリコレフェミがやってるようなヤツだけでなく、アンチポリコレの男ども自体、「構造的女」であり、距離のない狂宴に他ならない。
別の言い方をしよう。 日本は外見上は、あるいは社会上では、男社会というのはまがいようがない。企業、政治、学者等の世界を見ても、上層部は男がほとんどだ。一般の女たちがそれに不快を感じるのは当然だ、タテマエとしての男女平等は少なくとも先進諸国での規範なのだから。 だがここで精神分析的観点を導入すれば視野の反転がある。上に示したようにタテマエを守るのが純粋な機能としての「一神教的家父長制」だ。そうでないのが母権制だ。要するに男女平等というタテマエを守らない日本こそ「女社会」だ。機能としての男女のあり方は生物学的男女のみを視野に入れるだけでは大きく誤る。 これは最低限の知だよ、いくら21世紀という退行の世紀だって。 |
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収) |
フェミニストたちは家父長制という語をブラックボックスのままで使用する厚顔無恥をいつまで続けるつもりなのか。あの連中にとっては修正不能なのか。 最近、呉座騒動にかかわって、オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」の話題が学者の卵たちを中心に賑わっているが、あれは「構造的女対構造的女」の狂宴に他ならない。 |