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2021年11月7日日曜日

主体性は女性性である

フロイトラカンにおいて女なるもの(女性性)とは理論的核となる概念である。



本源的に抑圧されている要素は、常に女なるものではないかと思われる[Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist ](フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

女なるものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように[La Femme dans son essence,  …elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme](Lacan, S16, 12 Mars 1969)


ラカンは上で「抑圧」と言っているが、2ヶ月後のセミネールで排除(原抑圧)と言い換えている。


私が排除[forclusion]について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから[Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. ](Lacan、S16, 14 Mai 1969)


要するに、人はみな原抑圧によって、男女両性とも「女なるもの」を現実界に排除しているというのがフロイトラカン理論である。逆に言えば、言語秩序(ファルス秩序)に棲息する人はみな、男女とも「男なるもの」なのである。


ここで、二人のフロイトラカン注釈者の文を簡潔に並べよう。


原抑圧は「現実界のなかに女なるものを置き残すこと」として理解されうる[Primary repression can …be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. ](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

原抑圧の名、それは女なるものの排除である[le nom du refoulement primordial …que cette …la forclusion de la femme](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 26 novembre 2008)



次の10年離れたラカンの二つの発言は同じことを言っている。

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet] (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

女なるものは空集合である[La femme c'est un ensemble vide ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975)



ラカンの主体とは斜線を引かれた主体$のことであり、


主体$ ≡ 穴Ⱥ ≡ 空集合Ø ≡ 女なるもの


となる。


空集合は主体が現れる場である[l'ensemble vide qui dit qu'il y a là un sujet à surgir](J.-A. Miller, 1,2,3,4 Cours du 28 novembre 1984)

空虚としての主体の場自体が、主体を空集合と等置する[$ ≡ Ø]

La place même du sujet comme vide, qui fait équivaloir le sujet à l'ensemble vide :$ ≡ Ø (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 28 JANVIER 1987)



何度か掲げているジャック=アラン・ミレールの斜線を引かれた主体を付け加えれば次の通り。




穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ $

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)

対象aは主体自体である。

le petit a est le sujet lui-même( J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)

私は斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする[(- J) $

le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $  (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 04/06/2008)

私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す[$ (- φ) 

j'écris S barré équivalent à moins phi :  $ ≡ (- φ)  (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)



穴、対象a、斜線を引かれた享楽(享楽の喪失)、去勢とは同じ意味であり[参照]、ここに空集合と女なるものを付け加えてまとめればこうなる。




このあたりは、最近ミレールから強い批判を受けているジジェクもーーでさえも(?)ーー充分に認知しており、ミレールに準拠しつつ「主体性は女性性」としている。


主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「斜線を引かれた主体」の空虚)が女性性である[subjectivity as such (in the precise Lacanian sense of $, of the void of the "barred subject") is feminine](ジジェク『為すところを知らざればなり』第二版序文、2008年[参照])


最も重要なのは、人は自らのなかにある女性性を十二分に認めてそれに同一化しつつ、かつそこから距離を取ることである。そうでないと逆に自らのなかの女性性ーー例えば前回示した「距離のない狂宴」ーーに無意識的に囚われてしまう。


ファルス秩序の審級にある表象の主体(シニフィアンの主体)には常に女性性の残滓がある。



繰り返し強調しておけば、自らのなかの女性性を認めていないと、この残滓の奴隷になってしまう。


残滓の別名は、異者a(フロイトの異者としての身体[Fremdkörper] )であり、これがラカンのリアルな対象aである。


ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté.  ](Lacan, S25, 11  Avril  1978)


フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)


残滓…現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


ここまで示してきたことからわかるだろうように、斜線を引かれた主体とは異者なのである。


$ ≡ le petit a ≡ Fremdkörper



エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 Fremdkörper)の症状と呼んでいる。Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

ラカンは言っている、対象aは大他者のトポロジー的構造であり、対象aは主体自体だと。《対象aは主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている。》

Lacan peut dire du petit a qu'il est la structure topologique du grand Autre, et dire ensuite que le petit a est le sujet lui-même… « petit a essentiel au sujet, et marqué de cette étrangeté  »(S16, 14  Mai  1969) (J.-A. Miller, UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE, 2006/3 )




最後に話を少し前に戻そう。フロイトラカンの女性性とはヘーゲルの否定性である。したがってヘーゲル的に言えば、女性的なものを見据え、女性的なものに留まること。このとき初めて精神は力をもつ。



精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂のうちに見出すときのみである。Geistes. Er gewinnt seine Wahrheit nur, indem er in der absoluten Zerrissenheit sich selbst findet.〔・・・〕精神は、この否定的なものを見据え、否定的なものに留まるからこそ、その力をもつ[er ist diese Macht nur, indem er dem Negativen ins Angesicht schaut, bei ihm verweilt. ](ヘーゲル『精神現象学』「序論」1807年)


もちろんこれは実に難しいことだ、とくに解剖学的男性にとっては。いや、ファルス秩序のなかで教養を積んだインテリ女性にとっても同じぐらい難しいかも知れない。


ここでヘーゲルの最も魅惑的な「世界の夜」をも付け加えておこう。上に引用したジャック=アラン・ミレールの《空虚としての主体の場自体が、主体を空集合と等置する[$ ≡ Ø][La place même du sujet comme vide, qui fait équivaloir le sujet à l'ensemble vide :$ ≡ Ø]》 (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 28 JANVIER 1987)を思い起こしつつ、である。


人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜[Nacht der Welt]であり、空無[leere Nichts]である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この闇。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己[reines Selbst]。こちらに血まみれの頭[blutiger Kopf ]が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊[weiße Gestalt] が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜[Nacht der Welt] がこのとき、われわれの現前に現れている。

Der Mensch ist diese Nacht der Welt, dies leere Nichts, das alles in ihrer Einfachheit enthält, ein Reichtum unendlich vieler Vorstellungen, Bilder deren keines ihm gerade einfällt oder die nicht als gegenwärtige sind. Dies ist die Nacht, das Innere der Natur, das hier existiert – reines Selbst. In phantasmagorischen Vorstellungen ist es ringsum Nacht; hier schießt dann ein blutiger Kopf, dort eine andere weiße Gestalt hervor und verschwinden ebenso. Diese Nacht erblickt man, wenn man dem Menschen ins Auge blickt – in eine Nacht hinein, die furchtbar wird; es hängt die Nacht der Welt einem entgegen.(Hegel, Jenaer Realphilosophie, 1805/6)

(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)


ヘーゲルの世界の夜としての純粋自己、これこそフロイトの非自我である➡︎非自我という不快な異者


ーー世界の夜を見据え、世界の夜に留まること。このとき初めて精神は力をもつ・・・