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2021年12月1日水曜日

そうか、太腿か

 


母の顔だちのことについては今迄いろいろな折に書いたことがあるが、私はよく、母が美人に見えるのは子の欲目ではないか知らん、誰でも自分の母の顔は綺麗にみえるのではなからうか、と、さう思ひ思ひした。顔ばかりでなく、大腿部の辺の肌が素晴しく白く肌理が細かだつたので、一緒に風呂に這入つてゐて思はず、ハッとして見直したこともたびたびであつた。じつと見てゐると白さが一層際立つて来る感じがしたが、あゝ言ふ白さは今の人の白さとは違ふ。あの時分の女性は今のやうに外気に触れず、体の大部分を衣服で包み、日あたりの悪い、昼も薄暗い深窓に垂れ籠めて暮らしてゐたので、あゝ云ふ白さになつたのであらうか。(谷崎潤一郎『幼少時代』1955年)


そうか、やっぱり太腿か、もともとは。足の先よりはずっといいからな。


丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』1910年)

私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて…(谷崎潤一郎『痴人の愛』1924年)

春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』1933年)

盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』1962年)





近いほうがずっといいからな、マゾヒストの対象に。


足フェティシズムの最も簡潔な定式は、マゾヒズム的な秘密の覗きである[Die kürzeste formel für den Fussfet.wäre: in masochistischer Geheimseher. ](フロイト「足フェティシズムの事例」Ein Fall von Fußfetischismus, 1914年ーーオットー・ランク等同僚との未発表議事録)