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2021年12月1日水曜日

ラカンにおける倒錯概念の変遷


フロイトラカンにおいて倒錯の主要形態は、フェティシズムとサドマゾヒズムであり、基盤となる構造は同一である。どちらも母への固着のトラウマ(穴)にかかわる。だが二つの倒錯形態は、この固着の穴に対して異なった態度をもつ。


フェティシズムは否認ーー否認の原点にあるのは、「母のペニスの不在は知っているが、知らないふりをする」ことであるーー、サドマゾヒズムは母なる原大他者の穴にかかわる主体のポジションにある。


マゾヒズムは大他者の穴に対して自己身体を奉納することによって穴埋めしようとする。他方、サディズムは犠牲者の身体を奉納して穴埋めしようとする。


フロイトは1919年までは、サディズムがマゾヒズムに先立つものと考えていたが、1920年以降、マゾヒズムを原欲動とするようになり、サディズムはマゾヒズムの投射(投影)だと考えるようになった。ラカンは初期からこの原マゾヒズムを全面的に受け入れ語っている。


なおドゥルーズ によるサディズムマゾヒズムの劃然とした識別の試みがありラカンも評価しているが、本来のフロイトラカン観点からは二次的なものである。例えばラカンにとってマルキ・ド・サドでさえマゾヒストである。➡︎サドとマゾヒズム



ここではラカンにおける倒錯概念の変遷を、ーーフェティシズムとマゾヒズムに関する具体的な発言は敢えて外してーー、私が主要なものだと見なす範囲で、簡潔に引用列挙する。


倒錯のすべての問題は、いかに子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望のイマジネールな対象と同一化することにある。

Tout le problème des perversions consiste à concevoir comment l'enfant, dans sa relation à la mère, relation constituée dans l'analyse non pas par sa dépendance vitale, mais par sa dépendance de son amour, c'est-à-dire par le désir de son désir, s'identifie à l'objet imaginaire de ce désir(Lacan, E554, 1956年)


倒錯は大他者の享楽の道具になることである[La perversion… se fait l'instrument de la jouissance de l'Autre. ](Lacan, E823, 1960年)


私が 「倒錯の構造」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想( $ ◊ a )の裏返しの効果である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。ce que j'ai appelé structure de la perversion. C'est à proprement parler un effet inverse du fantasme. C'est le sujet qui se détermine lui-même comme objet dans sa rencontre avec la division de la subjectivité. (Lacan, S11, 13 Mai 1964 )


倒錯者は、大他者の中の穴を穴埋めることに自ら奉仕する[le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre](Lacan, S16, 26 Mars 1969)

父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)


例えば、アンゲルス・シレジウス 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している。そこには、倒錯的享楽があるといわざるをえない[Angelus SILESIUS, …à force de confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde…, ça doit quand même faire partie de la jouissance perverse.  ](Lacan, S20, 20 Février 1973)


倒錯とは、「父に向かうヴァージョン」以外の何ものでもない。要するに、父は症状である。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。[« perversion » ne veut dire que « version vers le père »,  et qu'en somme le père est un symptôme ou un sinthome,   …je l'écrive la « père-version »](Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

エディプスコンプレクス自体、症状である。父の名がすべてが支えられる名の父である限りで。それは、症状をより少なく必要性のないものにするわけではない。Le complexe d'Œdipe, comme tel, est un symptôme. C'est en tant que le Nom du Père est aussi le père du nom que tout se soutient, ce qui ne rend pas moins nécessaire le symptôme.  (ラカン, S23, 18 Novembre 1975)


フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である [que toute sexualité humaine est perverse si nous suivons bien ce que dit FREUD.  ]


フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性と呼ぶものの所以ではないだろうか[Il n'a jamais réussi à concevoir ladite sexualité autrement que perverse, et c'est bien en quoi j'interroge ce que j'appellerai la fécondité de la psychanalyse.  ]


あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)[Vous m'avez entendu très souvent énoncer ceci :  que la psychanalyse n'a même pas été foutue d'inventer  une nouvelle perversion [ Rires ]. ]


何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である。我々の実践は何と不毛なことか![C'est triste !  Parce qu'après tout si la perversion c'est l'essence de l'homme, quelle infécondité dans cette pratique !  ](Lacan, S23, 11 Mai 1976)



…………………


なおラカンの斜線を引かれた主体$はフロイトの自我分裂に大きな基盤があり、フロイトは自我分裂とフェティシズムを関連付けている。



ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.]  (Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)


◼️フェティシズムと自我分裂

フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕


幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Trieb-ansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt. 


我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


◼️自我分裂の一般性

欲動要求と現実の拒否のあいだに矛盾があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. 


われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. Der ganze Vorgang erscheint uns so sonderbar, weil wir die Synthese der Ichvorgänge für etwas Selbstverständliches halten. Aber wir haben offenbar darin unrecht. Die so außerordentlich wichtige synthetische Funktion des Ichs hat ihre besonderen Bedingungen und unterliegt einer ganzen Reihe von Störungen. (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


この考え方は1927年のフェティシズム論文にも、そして性理論三篇の1920年注にも示唆されている。


◼️否認の一般性

(ある種の患者において)現実の重要な部分が自我によって否認される。それはフェティシストにおいて女性の去勢の不愉快な事実が否認されるのと同様である。私はまた、幼児の生において同様の出来事はまったく稀ではないと考えている。Da war also ein gewiß bedeutsames Stück der Realität vom Ich verleugnet worden, ähnlich wie beim Fetischisten die unliebsame Tatsache der Kastration des Weibes. Ich begann auch zu ahnen, daß analoge Vorkommnisse im Kinderleben keineswegs selten sind, (フロイト『フェティシズム』1927年)


◼️フェティッシュの病因的固着

「初期の」性的刻印に関して…精神分析は新しい病因的固着[pathologische Fixierungen ]が、五歳あるいは六歳以降に起こりうるかを疑っている。

alle diese »frühzeitigen« Sexualeindrücke… während die Psychoanalyse daran zweifeln läßt, ob sich pathologische Fixierungen so spät neubilden können. 


真の解釈は、フェティッシュの発生の最初の記憶の背後に、埋没され忘れられた性的発達の最初の記憶の段階があり、それがフェティッシュによって表象される。それは、あたかも「隠蔽記憶」によるようにして、フェティッシュはこの記憶の残滓と沈殿物を表象するのである。つまり幼児期の最初の数年のこの段階に、フェティシズムとフェティッシュの選択が構成的に決定づけられる。

Der wirkliche Sachverhalt ist der, daß hinter der ersten Erinnerung an das Auftreten des Fetisch eine untergegangene und vergessene Phase der Sexualentwicklung liegt, die durch den Fetisch wie durch eine »Deckerinnerung« vertreten wird, deren Rest und Niederschlag der Fetisch also darstellt. Die Wendung dieser in die ersten Kindheitsjahre fallenden Phase zum Fetischismus sowie die Auswahl des Fetisch selbst sind konstitutionell determiniert.. (フロイト『性理論三篇』第1篇、1905年、1920年注)



これらを受け入れるなら、人はみなフェティシストということさえ言える。


…………………


他方、マゾヒズムはどうか。


マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)


ーーつまり人はみなマゾヒストから始まっている。


この受動性がラカンの享楽というマゾヒズムである。


原初の不快の経験は受動性である[primäres Unlusterlebnis …passiver Natur] (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

享楽はその基盤においてマゾヒズム的である[La jouissance est masochiste dans son fond](Lacan, S16, 15 Janvier 1969)


この享楽のマゾヒズムの別名が、享楽の穴(トラウマ)である。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)





冒頭に示したようにマゾヒズムの基盤は固着にある。


マゾヒズムの病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。

I le masochisme, …une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)


人は成人になってもマゾヒズムというトラウマ的固着に回帰する、というのがフロイトラカンである。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[ Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance.] (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)





なお前後するが、フェティシズムも固着であることを最後に示したおこう。


かつて渇望された対象、女のペニスへの固着 [die Fixierung an das einst heißbegehrte Objekt, den Penis des Weibes]は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求[infantiler Sexualforschung]のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴のフェティシズム的崇拝[Die fetischartige Verehrung des weiblichen Fußes und Schuhes]は、足を、かつて崇敬し、その後ないことに気づいた女のペニスにたいする代理象徴としているようにみえる[scheint den Fuß nur als Ersatzsymbol für das einst verehrte, seither vermißte Glied des Weibes zu nehmen;](フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第3章、1910年)


フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である[der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) ]……


我々は、喪われた女性のファルスの代替物として、ペニスのとなる器官や対象が選ばれると想定しうる[Es liegt nahe zu erwarten, daß zum Ersatz des vermißten weiblichen Phallus solche Organe oder Objekte gewählt werden, die auch sonst als Symbole den Penis vertreten]。


これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。Das mag oft genug stattfinden, ist aber gewiß nicht entscheidend. 


フェティッシュが設置されるとき、外傷性健忘における記憶の停止のような或る過程が発生する[Bei der Einsetzung des Fetisch scheint vielmehr ein Vorgang eingehalten zu werden, der an das Haltmachen der Erinnerung bei traumatischer Amnesie gemahnt]。


またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な直前の印象が、フェティッシュとして保持される[Auch hier bleibt das Interesse wie unterwegs stehen, wird etwa der letzte Eindruck vor dem unheimlichen, traumatischen, als Fetisch festgehalten. ]


こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである[So verdankt der Fuß oder Schuh seine Bevorzugung als Fetisch –; oder ein Stück derselben –; dem Umstand, daß die Neugierde des Knaben von unten, von den Beinen her nach dem weiblichen Genitale gespäht hat; ]。


毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景への固着[fixieren den Anblick der Genitalbehaarung]である。これには、あの強く求めていた女性のペニスの姿がつづいていたはずなのである。

Pelz und Samt fixieren –; wie längst vermutet wurde –; den Anblick der Genitalbehaarung, auf den der ersehnte des weiblichen Gliedes hätte folgen sollen; 


とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間、すなわち、まだ女性がファルスを持っていると考えていてよかったあの最後の瞬間をとらえている。だが私は、フェティッシュの決定が毎回確実に見通せる、というつもりはない。

die so häufig zum Fetisch erkorenen Wäschestücke halten den Moment der Entkleidung fest, den letzten, in dem man das Weib noch für phallisch halten durfte. Ich will aber nicht behaupten, daß man die Determinierung des Fetisch jedesmal mit Sicherheit durchschaut. 


フェティシズムの研究は、去勢コンプレクスの実在をいまだ疑ったり、あるいは女性の性器に対する恐怖には他の理由があるとする人々に是非お勧めしたい。たとえば出産外傷の記憶を想定している人もいる。このフェティッシュの解釈となると、私にはまた別の学問的興味がある。Die Untersuchung des Fetischismus ist all denen dringend zu empfehlen, die noch an der Existenz des Kastrationskomplexes zweifeln oder die meinen können, der Schreck vor dem weiblichen Genitale habe einen anderen Grund, leite sich z. B. von der supponierten Erinnerung an das Trauma der Geburt ab. Für mich hatte die Aufklärung des Fetisch noch ein anderes theoretisches Interesse. (フロイト『フェティシズムFetischismus』1927年)


上の文の最後にフロイトはフェティシズムと出産外傷の関連を示唆しているが、これはオットー・ランクの「女性器への固着」を言っている(参照)。


出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている[Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde](オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)