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2021年12月13日月曜日

ラカンの現実界とフロイトの外傷性神経症


さて前回オベンキョウ用の資料を提示したのを機縁に、今まで繰り返したことだが、もう一度確認しておこう。

 例えば1976年のラカンは「現実界=トラウマ=強制 =レミニサンス」と言っている。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる。Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)



この75歳のラカンの発言は、フロイトの次の文のパクリだ。ここには「トラウマ(トラウマ神経症 )=強制=レミニサンス」とある。


夢の研究は、深層心理過程の探究をみちびく最もたしかな道とみなすことができる。外傷性神経症におこる夢は、思者を災害の場面に繰りかえし引きもどすという性格をもっており、患者はそのたびに驚愕をあらたにして目ざめる。この点について人はほとんどあやしまない。

Das Studium des Traumes dürfen wir als den zuverlässigsten Weg zur Erforschung der seelischen Tiefenvorgänge betrachten. Nun zeigt das Traumleben der traumatischen Neurose den Charakter, daß es den Kranken immer wieder in die Situation seines Unfalles zurückführt, aus der er mit neuem Schrecken erwacht. Darüber verwundert man sich viel zuwenig. 

トラウマ的出来事による刻印の強度の証拠として、睡眠中にでさえ、たえず患者はその場面へと強制される[aufdrängt」と人は考える。Man meint, es sei eben ein Beweis für die Stärke des Eindruckes, den das traumatische Erlebnis gemacht hat, daß es sich dem Kranken sogar im Schlaf immer wieder aufdrängt. 


いわば患者は心的にトラウマへ固着させられているのである[Der Kranke sei an das Trauma sozusagen psychisch fixiert]。

病いを引き起こす出来事への固着は、われわれにとって、ヒステリーの事例において遠いむかしから馴れ親しんでいる。1893年にブロイアー&フロイトは「ほとんどのヒステリー症者はレミニサンスに苦しむ」と公表した。Solche Fixierungen an das Erlebnis, welches die Erkrankung ausgelöst hat, sind uns seit langem bei der Hysterie bekannt. Breuer und Freud äußerten 1893: Die Hysterischen leiden großenteils an Reminiszenzen. 


戦争神経症についても、フェレンツィやジンメルのような観察者は、かなりの動因的症状をトラウマが起こった瞬間への固着によって説明することができた。Auch bei den Kriegs-neurosen haben Beobachter wie Ferenczi und Simmel manche motorische Symptome durch Fixierung an den Moment des Traumas erklären können. (フロイト『快原理の彼岸』第2章、1920年)




1893年、まだ30歳代のフロイトは、確かにブロイアーとともに、《ほとんどのヒステリー症者はレミニサンスに苦しむ[Die Hysterischen leiden großenteils an Reminiszenzen] 》と言っている。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 [Fremdkörper] )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物としてのトラウマは、引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こす。ほとんどのヒステリー症者はレミニサンスに苦しむのである。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)



異物(異者としての身体 [Fremdkörper] )とあるが、これはラカンの次の二文をミックスさせればよい。



フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)




現実界=モノ=異者である。この異者はフロイトの思考においては固着によって発生する(固着はすべてトラウマに関わりトラウマへの固着と等価である)。



固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


原抑圧と固着は等置しうる概念である。ラカンは《私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].》(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)と言っているが、穴とはトラウマのことであり、フロイトの異者としての身体の定義のトラウマと等価である。ーー《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».]》(Lacan, S21, 19 Février 1974)




さてここまでで、ラカンは現実界はフロイトの外傷神経症とまったく等価なのだろうか、という問いが生まれる。


フロイトにおいて外傷神経症は通常の事故への固着によるものと幼児期の出来事への固着によるものの二種類がある。


外傷神経症は、トラウマ的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)


ーーこの文でフロイトが言っているのは事故的トラウマ、とくに1917年という時期、第一次世界大戦において外傷性戦争神経症多発に遭遇しての発言である。だが幼児期の出来事も同じようにトラウマ的固着が起こる。



トラウマへの無意識的固着[die unbewußte Fixierung an ein Traumaは、夢の機能[Traumfunktion]の障害のなかで最初に来るように見える。睡眠者が夢をみるとき、夜のあいだの抑圧の解放は、トラウマ的固着[traumatischen Fixierungの圧力上昇を現勢化させ、夢の作業を機能させる失敗[versagt die Leistung seiner Traumarbeit]を引き起こす傾向がある。夢の作業はトラウマ的出来事の記憶痕跡[Erinnerungsspuren der traumatischen Begebenheit]を願望実現[Wunscherfüllung]へと移行させるものだが。夢の作業の失敗という環境において起こるのは、人は眠れないことである。人は、夢の機能の失敗の恐怖から睡眠を諦める。

ここで外傷性神経症[traumatische Neurose ]は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen ](フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年)



後年のフロイトにおいては、幼児期の出来事への固着が核心になる。


病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕このトラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕

このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



ラカンの現実界(現実界の享楽)はこの幼児期の身体の出来事へのトラウマ的固着である。事実、ジャック=アラン・ミレールは上のトラウマへの固着と享楽の固着を等置している。


フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert… une répétition de la fixation infantile de jouissance]. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)



ところでラカンは現実界の症状を身体の出来事、あるいは刻印と言った。


症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

症状は刻印である。現実界の水準における刻印である[Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel] (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30 Nov 1974)



これは先ほどの『モーセと一神教』の文にダイレクトに現れている、自己身体の出来事[Erlebnisse am eigenen Körper]、 不変の個性刻印[unwandelbare Charakterzüge]と


したがってミレールは次のように言うのである。


享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est …de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,…elle est l'objet d'une fixation].  (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)



以上、ラカンの現実界の享楽とはフロイトの幼児期の外傷神経症と呼びうるものに相当する。それは幼児期における身体の出来事としてのトラウマへの固着とその反復強迫である。


例えば、次の二文は同じことを言っている。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)



………………


なお、「現実界=モノ=異者」のモノとは母である。


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノdas Dingの場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)



実際、初期幼児期の身体の出来事は、最初の世話役である母あるいは乳母にかかわる。

女への固着(おおむね母への固着)[Fixierung an das Weib (meist an die Mutter)](フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)


つまりラカンの現実界の享楽とは基本的には、母へのトラウマ的固着に相当する。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)


現実界の享楽=トラウマ=マゾヒズム である。


フロイトにおいてマゾヒズム=受動性=トラウマ=母である。


マゾヒズム的とはその根において、女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)

トラウマを受動的に体験した自我[Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)



したがって母へのトラウマ的固着[traumatischen Fixierung an die Mutter]の別名は、母へのマゾヒズム的固着[masochistische Fixierung an die Mutter]である。



無意識的なリビドーの固着は…性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年)





※付記


フロイトの欲動の定義はトラウマである。


すべての神経症的障害の原因は混合的なものである[Die Ätiologie aller neurotischen Störungen ist ja eine gemischte; ]。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動が自我による飼い馴らしに反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期のトラウマ体験 を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである[es handelt sich entweder um überstarke, also gegen die Bändigung durch das Ich widerspenstige Triebe, oder um die Wirkung von frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumen, deren ein unreifes Ich nicht Herr werden konnte. ]

概してそれは二つの契機、素因的なものと偶然的なものとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかにトラウマは固着を生じやすく、精神発達の障害を後に残すものであるし、トラウマ的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態においてもその障害が現われる可能性は増大する。[In der Regel um ein Zusammenwirken beider Momente, des konstitutionellen und des akzidentellen. Je stärker das erstere, desto eher wird ein Trauma zur Fixierung führen und eine Entwicklungsstörung zurücklassen; je stärker das Trauma, desto sicherer wird es seine Schädigung auch unter normalen Triebverhältnissen äußern. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937 年)


これが、ラカンが穴という語で言っている意味である。


享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou. ](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


すなわち「享楽=欲動=リビドー=穴=トラウマ」である。


なおエロスとリビドーも等価である。


すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)


つまりは「愛のトラウマ」ということになる。


初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen.](フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)



この愛はリアルな愛という意味であり、ラカン観点では、われわれが通常愛と呼んでいるものは、リアルな穴の穴埋めとしてのイマジネールな愛である。



愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.](Lacan, S21, 18 Décembre 1973)



もちろんシンボリックな愛も含めてもよろしい。



➡︎愛の欲動は死の欲動である[Liebestriebe ist Todestriebe]




愛の欲動とは、先ほど示したように欲動=トラウマであるゆえ、愛のトラウマである。このトラウマとしてのリアルな欲動の別名がマゾヒズムであり、死の欲動である。

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。・・・そしてマゾヒズムはサディズムより古い[Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus]〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)




くどくなるが、ラカンからも引用しておこう。


死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)

享楽はその根にマゾヒズムがある[La jouissance est masochiste dans son fond ](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)

死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance]. (ラカン、S17、26 Novembre 1969)



なお、マゾヒズムには健康ヴァージョンもある。


ラカンはマゾヒズム において、構築された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。

Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)



健康ヴァージョンのマゾヒズムの別名は被愛妄想である。


女性的マゾヒズムの秘密は、被愛妄想である[Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie] (J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)



人はその根にみなマゾヒズムがあるとしたら、「死への道を歩まないために」被愛妄想の選択肢がある。実際、ジャック=アラン・ミレールは自らを被愛妄想だと言っている。


少なくともラカンが愛の関係において被愛妄想と何かほかのものとのあいだの選択肢[choisir entre l'érotomanie et autre chose dans le rapport à l'amour]を提示した場で、私はむしろ被愛妄想の側にある[je me situais plutôt du côté érotomaniaque.](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, Cours n°4 – 5/12/2007)




ラカンはドゥルーズ のマゾッホ論をおそらく被愛妄想のポジションにあるものとして読んだのだろう、絶賛している。


われわれが欲望の原因の機能に与える、最も特徴的な、最も明晰な形態、それはマゾヒズム的享楽と呼ばれるものである。…すなわち剰余享楽の水準に位置付けられる(本来の享楽とは別の)類似的享楽である。…われわれの友ドゥルーズはとても幸福にもそれを強調し、精神分析の領野に支配しているざわめく愚かさに向けて提供してくれた!


La forme la plus caractéristique, la plus subtile  que nous ayons donnée de la fonction « cause du désir »,  c'est ce qui s'appelle la jouissance masochiste.   C'est une jouissance analogique, c'est-à-dire qu'au niveau du plus de jouir, …notre ami DELEUZE a mis si heureusement l'accent pour suppléer à l'imbécillité frémissante qui règne dans le champ de la psychanalyse !  (Lacan, S16, 22  Janvier  1969)





剰余享楽ーー享楽の穴の穴埋めーーとしての対象aには女性化効果がある、《対象aの女性化効果、つまりそれは欲望の原因だ[cet effet féminisant qu'est le petit(a)   …à savoir la cause de son désir. ]》(Lacan, S17, 20 Mai 1970)。


この女性化という意味を捉え損なってはならない。


男性性の誇示[virilités démonstratives]も女性化のポジションにあるとさえ言いうる。私は技巧を演じる。レザーキャップとレザージャケットをつけ(笑)、レザーパンツをはき、そして大きなバイクに乗る…こうすれば基本的にはよりいっそうの男性性を強調する徴[signes emphatiques de la virilité]となる。事実上、これは女性化効果[effet féminisantを持っている。〔・・・〕


したがってこの点に関して一般化してわれわれは言いうる。基本的な問い、大他者の欲望に対してどんな解決法が見出されうるのか、と。大他者の欲望が現前するとき、その基本には、最も明瞭な主体的効果として不安がある。この欲望のなかにある私とは何?何が私を大他者の欲望にするの?どうして私を欲望するの?[que suis-je dans ce désir ? Que me fait le désir de l'Autre, que me fait-il ?]と。


そして基本的に、被愛妄想形式における愛[l'amour sous la forme érotomaniaque]は、最も優れた解決法である。つまり、私は大他者の欲望の原因である。とてもシンプルに私は大他者の欲望の原因だから、彼は私を愛する[C'est très simple je suis la cause du désir de l'Autre, il m'aime.、と。


したがって、基本的に被愛妄想形式は、不安と愛のあいだにある欲望の軸[pivot du désir entre angoisse et amour]の役割を演ずる。結局、この愛の解決法[solution amoureuse ]がたしかに最も優れている。それは最も巧く構成されれば、不安防御壁の審級[ordre du pare angoisse]となる。(J.-A. MILLER, LES US DU LAPS - Cours n°20  31/05/2000)



以上、みなさん、せいぜい被愛妄想に耽ってください。いや最近の若いのはどうも自ずとにこれをやっているように見えるのが多いですが。もっともあまりにこの被愛妄想に耽溺しすぎると、おバカなことを言っても、他人は愛してくれてるんだと勘違いしてしまうという欠陥がありますからオキヲツケヲ!



なおラカンの穴とは喪失と等価ですが、ミレールは上のように言った前年の論でこうも言っています(参照)。


剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


ようは基本は穴は埋まらないというのがフロイトラカンですしーーフロイトの穴埋めは欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebeですが昇華は困難と言っていますーー、多くの人の実感でもそうでしょう、だから被愛妄想的剰余享楽という穴埋めを過信してはなりません。


固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas](ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)