「身体自我[Körper-Ich]と身体エス[Körper-Es]」で記したことってのは、ま、ふつうの人は聞き流しておいたらいいさ。フロイトそれにラカンというのは、神話的に語られてきたことの陳腐化の相が多分にあるので、一般の人が毛嫌いするのはよくわかる。
例えば「分身」、これは異者としての身体に自己イマージュがプラスされたものに過ぎない。異者としての身体とはトラウマあるいは穴のことだ。この「穴」自体、作家たちによってしばしば言及されてきた語である。空虚とか無とかのヴァリエーションはあるにしろ。
穴としての異者身体とは、自我に同化されない強度の高い身体の出来事によって生じるエスの核である(フロイトは異者身体は「エスに置き残される」とも表現している)。この身体の出来事の別名がトラウマへの固着だ。固着の意味は、トラウマ的出来事にくっついて離れず、無意識のエスの反復強迫として作用するということだ。別の言い方なら固着されたトラウマ的出来事の回帰、これが異者身体の回帰である。ラカンのリアルな対象aとは厳密にこの異者身体のことであり、この回帰が享楽の回帰=穴の回帰だ。さらに異者身体とは不気味なもののとまったき等価である。この不気味なトラウマ的出来事の回帰をフロイトはニーチェの「永遠回帰」としたのである。