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2021年12月8日水曜日

バタイユにおける「トラウマ的固着=マゾヒズム的固着」

 


何ものかが私を書く行為に駆り立てている、思うに、狂ってしまうことの恐怖が。[Ce qui m'oblige d'écrire, j'imagine, est la crainte de devenir fou](バタイユ『ニーチェについて』1945年)



バタイユも愛人コレット・ペニョと同じく、強烈なトラウマ的固着[traumatischen Fixierung]=マゾヒズム的固着[masochistische Fixierung]をもった作家であることは疑いようもない。おそらくニーチェと同じように。


「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)



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つづいて私は身を起こすと、横向けに寝ころんでいるシモーヌの股をおっ拡げた。すると、ちょうどギロチンが刎ねる首を待ち受けるように、どうやら、自分が終始待ち望んでいたらしいものを、いま眼の前にしていることに私は気づくのだった。私の眼球はあたかも恐怖のあまり勃起し、いまにも頭蓋から飛び出すのではないかと思えるばかりだった。シモーヌの毛むくじゃらの陰門の中に、私はありありと見たのである。マルセルの薄青色の眼玉が小便涙を垂らしながら私を見つめているのを。湯気立つ毛叢のなかを幾筋も伝い流れる淫水が、この月世界めいた幻に悲痛な悲しみの趣を添えるのだった。シモーヌの太腿を私はいつまでも押し拡げていた、それは排尿の痙攣で引きつり、そして眼玉の下から足もとへかけて熱い尿が小川のように伝い流れるのだった。Je maintenais ouvertes les cuisses de Simone qui étaient contractées par le spasme urinaire, pendant que l'urine brûlante ruisselait sous l'œil sur la cuisse la plus basse(バタイユ『眼球譚』生田耕作訳、原著1928年)


バタイユは追い詰められて精神分析家アドリアン・ ボレル Adrien Borel に到った。ずたずたになって、孤独による腐食、飲酒の泥沼、そして苦悶に窒息させられて。1924年、27歳の時、それまで或る種の敬虔なダンディだったバタイユは放蕩に陥った。教会から娼窟へ。1925年、友人 Dausse 医師がバタイユにボレルを紹介した。ボレルとの分析は救命ブイ、天運だった。それは短いが決定的だった(1926年の夏に始まり一年続いた)。


分析は、怪物的基盤をもった手始めの行為によって方向づけられる。1925年、ボレルはバタイユに図書館に行くことを進めた。写真を見るようにと。それが、バタイユをいかに衝き動かすのかを知らないままで。ジョルジュ・デュマ Georges Dumasによる心理学の論文のなかに複写された中国の拷問写真である。〔・・・〕


バタイユは分析において熱中して話し続けた。苦痛と死への凝視に囚われた満足を[satisfaction prise à la contemplation de la douleur et de la mort ]。彼の盲目の父、インポテンツで、梅毒の最終段階へと病苦する父への凝視を。彼は1934年8月、ドイツ軍侵攻の際、爆撃のもと、家政婦に任せたまま、父を置き去りにして母とともに逃げ出した。バタイユは話しに話した。空虚のなかに喪われた父 [perdus dans le vide]、父の白眼 blanc des yeux]、排尿のたびに踠き叫ぶ脊髄癆の全き苦痛の眩暈のもと、肘掛椅子のなかで引き裂かれた父を。痙攣的な笑い[rires spasmodiques]を以て、である。(Michel Bousseyroux, La psychanalyse de Georges Bataille 2018)








私は、1925 年以来、これらの写真の 1 枚を所有している。それは、フランスの精神分析学者の草分けの一人であるボレル博士からもらったものである。この 1 枚は、私の人生において、決定的な役割を持った。私は、この恍惚としている(?)ようでもあれば、同時に耐え難くもあるこのイマージュに絶えることなく付き纏われてきた。私は、サド侯爵は、現実の処刑――それは彼が夢想しながらも接し得ないものであった――に立ち会うことがなかったが、そうだとしても、処刑のイマージュ像から何を引き出し得たろうかと考える。彼は、その図像を、あれやこれやのやり方で、たえず自分の目の前に掲げたことであろう。けれども、サドは孤独の中において、少なくとも、相対的な孤独の中において、それを見ようとしたであろう。その孤独なしには、恍惚的で悦楽的な結果はありえないからである。 Mais Sade aurait voulu le voir dans la solitude, au moins dans la solitude relative, sans laquelle l’issue extatique et voluptueuse est inconcevable. (バタイユ『エロスの涙』1959年)


 

バタイユはわかってたね、マルキ・ド・サドの根にはマゾヒズムがあることを。ラカンはバタイユから学んだのかも➡︎「サドとマゾヒズム」。こういったところは、マゾッホ論の「哲学者」ドゥルーズとは雲泥の差さ。



私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産![misérables avortons de philosophie!]我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣[habits qui se morcellent ]を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 [façon de batifoler]以外の何ものでもない。〔・・・〕


真理についての唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能、享楽という原マゾヒズムである[cette question qui est la seule, sur la vérité et ce qui s'appelle - et que FREUD a nommée - l'instinct de mort, le masochisme primordial de la jouissance]〔・・・〕全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている[Toute la parole philosophique foire et se dérobe.](ラカン、S13、June 8, 1966)