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2021年12月9日木曜日

ガラスの器のなかのイチジクの実(中井久夫)

 


中井久夫は少年期にひどいじめトラウマに出会っている、教師や上級生のリンチに。


笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった……(中井久夫「知命の年に」初出1984年『記憶の肖像』所収)



そして阪神大震災に遭遇して、過去のいじめトラウマが蘇ったそうだ。


たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」初出1997年『アリアドネからの糸』所収)



50年以上を隔てた無意志的想起である。これは厳密に、フロイトの次の記述の現象に相当する。


経験された寄る辺なき状況 (無力な状況 Situation von Hilflosigkeit )をトラウマ的状況と呼ぶ 。〔・・・〕そして自我が寄る辺なき状況が起こるだろうと予期する時、あるいは現在に寄る辺なき状況が起こったとき、かつてのトラウマ的出来事を想起させる。

eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; …ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, oder die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)



中井久夫はこの現象を《トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしている》としている。


最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)



原トラウマとあるが、フロイトにおいての原トラウマは母胎の喪失である。


出産外傷、つまり出生という行為は、一般に「母への原固着」[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、「原抑圧[Urverdrängung]」を受けて存続する可能性をともなう「原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)



とはいえ、フロイトはより一般的に、離乳トラウマを原喪失に近似したものとして語ってもいる。ここではジャック=アラン・ミレールを引こう。


母は、原喪失、すなわち乳房の喪失の場を占める[la mère préside à la perte primitive, celle du sein]。主体は、(後年の人生で)享楽の喪失が起こった時には常に、異なる強度にて、母なるイマーゴを喚起する[L'imago maternelle est rappelée au sujet, avec une intensité variable, chaque fois qu'une perte de jouissance intervient.]。(J.-A. Miller, DES REPONSES DU REEL, 14 mars 1984)



この母なるイマーゴは、例えばラカンの次の発言に相当する。


母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される。sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former […] ses premières fixations, (Lacan, S4, 12 Décembre 1956)



ラカンは離乳トラウマとともにフロイトと同様、出産トラウマも示唆している。


口唇的離乳と出産の離乳(分離)とのあいだには類似性がある[il у а analogie entre le sevrage oral  et le sevrage de la naissance ](Lacan, S10, 15 Mai, 1963)



何を原トラウマとするのかは別にして、フロイトは原初にあるトラウマは回帰すると言っている。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)



これが享楽の回帰である(享楽はラカンの定義においてトラウマあるいは喪失である[参照])。


反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)



なお中井久夫は2002年に、自らのなかに居残っている3歳前後以前の幼児型記憶を10個挙げているが[参照]、そのなかで2番目に記述された記憶は次のものである。


「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)