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2021年12月9日木曜日

いつまでもへばりつかないでよ


ねえアンタ、もういいでしょ、いつまでもへばりつかないでよ。水かけるわよ。


予ハ跪イテ足ヲ持チ上ゲ、親趾ト第二ノ趾ト第三ノ趾トヲ口一杯ニ頬張ル。予ハ土蹈マズニ唇ヲ着ケル。濡レタ足ノ裏ガ蠱惑的ニ、顔ノヨウナ表情ヲ浮カベテイル。「モウイヽデショ」急ニシャワーガ流レ始メタ。彼女ノ足ノ裏ト予ノ頭ダノ顔ダノヲ水ダラケニシテ。………(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』1961年)




アタシもう四回も書いたのよ、アンタのお好きらしいボウヤのこと、面倒を厭わずにね。



ボウヤとの齟齬の理由

「現代思想」――または、店晒しにされた「厚顔無恥」

知的銃殺刑の対象

一行一句の間違い




アンタみたいなコモノにはサディストマインドがでちゃうわ



ドストエフスキーの途轍もない破壊欲動…彼は小さな事柄においては、外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであった[daß der sehr starke Destruktionstrieb Dostojewskis, …also in kleinen Dingen Sadist nach außen, in größeren Sadist nach innen, also Masochist] (フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)




アタシが相手にする人物じゃないのよ、あのボウヤって。ゼンゼン。



攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの生長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーーあるいは、どれほど手ごわい問題を、求めているかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいということではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。…敵と対等であることーーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない[Wo man verachtet, kann man nicht Krieg führen; wo man befiehlt, wo man etwas unter sich sieht, hat man nicht Krieg zu führen.]


わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。


第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。


第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。


第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。


第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』)




おわかりかしら、テキトーな人探してくれる? 表向きは友人関係にある松本卓也くんなんてどうかしら? 彼は充分にわかってる筈よ、ダンマリきめこんでるだけでね。