ここでもう一度固着の残滓の話に戻ろう。 |
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母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
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このエロスはもちろんリビドーのこと。 |
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すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年) |
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つまり、母へのエロス的固着の残滓[Rest der erotischen Fixierung an die Mutter]=母へのリビドー固着の残滓[Rest der Libidofixierung an die Mutter]だ。 |
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常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
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この母へのリビドー固着の残滓[Rest der Libidofixierung an die Mutter]のリビドー がラカンの享楽だ。 |
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ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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したがって、母へのリビドー固着の残滓は、「母への享楽固着の残滓」となる。 |
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フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着である[c'est ce que Freud appelait la fixation…c'est une fixation de jouissance」.(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97) |
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この「母への享楽固着の残滓」の享楽にマゾヒズムを代入すれば、「母へのマゾヒズム的固着の残滓」となる。 次の文でラカンが母なる女は享楽を与えると言ってるには、「母なる女がマゾヒズムを与える」ってことだ。 |
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(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition.] (Lacan , S17, 11 Février 1970) |
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幼児はみな母なる支配者にみな受動的立場に置かれる。つまりマゾヒスト的立場に置かれる。残滓とはこれがいつまでも居残るということだ。 |
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「母なる女がマゾヒズムを与える」とは、冒頭に引用したセミネールⅩⅩⅢの《マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である[Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel》と同じことだ、現実界=モノ=母なんだから、「マゾヒズムは母によって与えられた主要形態」となる。 |
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覚えてないかい、あの経験を? |
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原初の不快の経験は受動性である[primäres Unlusterlebnis …passiver Natur] (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895) |
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不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
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あれは確かに不快な出来事だけど、あれを快原理の彼岸にある悦って言うんだ。 |
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苦痛のなかの悦[Schmerzlust]は、マゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要) |
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フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969) |
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ラカンは、ある程度知ると、似たようなこと繰り返してるのが分かるよ、マンネリにならないように言葉を変えてね。 |
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現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place » (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |
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ーーこれは事実上、母へのマゾヒズム的固着[la fixation de Jouissance masochiste sur la mère]は常に回帰するってことだ。 |
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フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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ミレールだってそうだ、似たようなことを、手を変え品を変え言い続けてるんだ。 |
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ラカンの観点では、マゾヒズムは人に広く行き渡っている。マゾヒズムはリビドーと死の欲動の結合に関与していると言いうる[dans la perspective de Lacan, il y a une prévalence du masochisme, dont on peut dire qu'elle est impliquée par l'unification de la libido et de la pulsion de mort. ](J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 3 MAI 1989) |
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享楽という語は、二つの満足ーーリビドーの満足と死の欲動の満足ーーの価値をもつ一つの語である[Le mot de jouissance est le seul qui vaut pour ces deux satisfactions, celle de la libido et celle de la pulsion de mort. ](J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE , 2016/3 ) |
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リビドーは愛の欲動である[Libido ist …Liebestriebe](フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要) |
マゾヒズムという愛の欲動が極まれば死ぬよ、固着をきわめて融合するってのは母なる大地への回帰でしかないから。
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 [Vẻderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。 |
すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。 そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年) |
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以上、母へのマゾヒズム的固着という残滓に、人はみな多かれ少なかれ支配されている。それを飼い馴らさないと、ムダなサディズム的欲動にやられてしまう。オキヲツケヲ!
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。 Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat.…daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか! es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕 |
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
ここでは母へのマゾヒズム的固着[masochistische Fixierung an die Mutter]を強調したが、より一般的にはたんにマゾヒズム的固着[masochistische Fixierung]でよい。例えば通常の事故による外傷も固着が生じる、ーーー《外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している[Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt.]》(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1917年)
トラウマ的出来事を「受動的=マゾヒズム的」に被り固着が生じる。トラウマとは常にマゾヒズム体験だ。
以上、私たちの中にはマゾヒズム的固着がある。マゾヒズムとサディズムとは紙一重である。それは天秤の左右の皿だ。ツイッターとは、自らの破壊性を手なづけられないサディストたちが跳梁跋扈している場だ。
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
自らのやってることがサディズムだと気がついていない不感症の方のために、ニーチェも引用しとかなくちゃな。 |
人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる[aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年) |
ーー欲動はマゾヒズムへの渇きである!、《欲動は…悦への渇きである[Triebe …der Durst nach Lüsten]》(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)