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2021年12月2日木曜日

ゆっくり派と近道派

 谷崎や三島のようなマゾヒスト作家というのは、精神分析的には水際立った事例なのでね、少し今かかわってるんだ。

もっともフロイトの定義においては、人はみなマゾヒストから始まっており、成人になっても必ずその残滓がある。つまり自らのなかのマゾヒズムを否定している人間はたんに抑圧しているだけだが。


マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)




とくに三島由紀夫はマゾヒズムがいかに死の欲動に繋がるかを見ることができる至高の事例のひとつじゃないかな、➡︎ 「三島由紀夫と母の乳房



ここで最も基本的な愛の図式を掲げよう。愛には対象愛とナルシシズムしかない。これは誰もが認めるだろう。だがナルシシズムには種々の分節化がある。それを示す図だ。




ーーもしお好きなら、対象愛と死の欲動のあいだに点線をつけてもよろしい。例えば神への愛という対象愛の根源は死の欲動だと知っている信者のみが本物だ。

何はともあれ、最終的に「喪われた自己身体愛=原マゾヒズム =死の欲動」が置かれる。


喪われた自己身体とは「喪われた母の身体」のことである。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

享楽は去勢である [la jouissance est la castration]。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)



この「喪われた自己身体愛=原マゾヒズム =死の欲動」が究極の愛の欲動であり、ラカンの享楽だ(参照)。




これは何も精神分析内の話ではない。例えばゴダールだってしっかり示している(映画史、2B)



芥川も、ダヴィンチなどから学ぶことによる若い頃から知っていた。


我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)

Or vedi la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume, dell'uomo che con continui desideri sempre con festa aspetta la nuova primavera, sempre la nuova state, sempre e' nuovi mesi, e' nuovi anni, parendogli che le desiderate cose venendo sieno troppe tarde, e non s'avede che desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, che trovandosi rinchiusa pro anima dello umano corpo desidera sempre ritornare al suo mandatario. E vo' che s'apichi questo medesimo desiderio en quella quintaessenza compagnia della natura, e l'uomo è modello dello mondo.(Codice Leonardo da Vinci)



……………

以下、マゾヒズムが死の欲動に繋がる意味合いを引用にて簡潔に示そう。



享楽という原マゾヒズム[le masochisme primordial de la jouissance](Lacan, S13, June 8, 1966)

死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムを含んでいる。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである。[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert, ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。そしてマゾヒズムはサディズムより古い。Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat.…daß der Masochismus älter ist als der Sadismus〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)




◼️原マゾヒズムと原ナルシシズム、対象a

マゾヒストは決して次のことによって定義されるものではない、すなわち苦痛や苦痛のなかの快、快のための苦痛ではない。le masochiste ne peut aucunement être défini : ni souffrir, à avoir du plaisir  dans la souffrance, ni souffrir pour le plaisir.

マゾヒストを唯一明示しうるのは、対象aの機能を持ち出す以外ない。それがまったき本質である。私は信じている、重要なのはかつて原ナルシシズムのため確保されていた場処に目星をつけなければならないと。On ne peut articuler le masochiste qu'à faire entrer…que la fonction de l'objet(a) en particulier y est absolument essentielle. Je crois que l'important  de ce que…peut être repéré à la place anciennement réservée au narcissisme primaire. (Lacan, S13, 22 juin 1966)


◼️対象a

対象aの起源、喪われた対象aの機能の形態、〔・・・〕それは永遠に喪われている対象の周りを循環すること以外の何ものでもない[l'origine …la forme de la fonction de l'objet perdu (a), …à contourner cet objet éternellement manquant. ](ラカン, S11, 13 Mai 1964)

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン, S11、20 Mai 1964)


◼️原ナルシシズムの原像

子宮内生活は原ナルシシズムの原像である[la vie intrautérine serait le prototype du narcissisme primaire ](Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)

自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)



谷崎潤一郎と三島由紀夫の作品というのは、その顕れ方は異なるとはいえ、この「原マゾヒズム欲動=原ナルシシズム欲動=死の欲動」を感知するための実に優れた事例だよ。ボクはたいして読んでいるわけじゃないから、あまりエラそうなことは言いたくないが。


谷崎と三島ってのはゆっくり派と近道派だ。


谷崎の創作活動の道程は、ゆっくりと長い時間をかけて母親との失われた性的結合を取り戻してゆく過程であったといえるのではないか(野口武彦『谷崎潤一郎論』1973年)