分離不安と融合不安の話は何度かしてきたが、ここでは前回示した原ナルシシズムも含めて記述する。
最初の母子関係において、子供は身体的な未発達のため、必然的に、最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。このときの基本動因は、不安である。この不安は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話役としてもよい。寄る辺ない幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」がある。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。…フロイトはこれを母に呑み込まれる不安、あるいは母に毒される不安とした。この不安を「融合不安」と呼びうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009年、摘要) |
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人には大きく二つのタイプがある。原初にはみな分離不安があるには違いないが、その後の乳幼児期だ、人の性向を決定づける主因は。あくまでフロイトラカン的な精神分析においては、と断っておくし、以下の図はそれをさらに単純化したものだが。ーー《幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。 die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben》(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)
作家でいえば、養子にやられた夏目漱石は「分離不安=融合欲動」タイプ、母に強く愛された森鴎外は「融合不安=分離欲動」タイプだろう。
もっとも作家は「分離不安=融合欲動」タイプが多いだろうけど。芥川龍之介、室生犀星、太宰治、坂口安吾、それに一見分離欲動タイプに見える三島由紀夫も、乳幼児期のとんでもない分離トラウマを想起すれば、融合欲動タイプでありながら、それを強く抑圧した作家だろう。
あるひは私の心は、子羊のごとく、小鳩のごとく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に変はるのかもしれない。しかし厄介なことは、私のかうした自戒が、いつしか私自身の一種の道徳的傾向にまでなつてしまつたことである。(三島由紀夫「芥川龍之介について」1954(昭和29)年) |
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他方、例えば学者は「融合不安=分離欲動」タイプが多いように見える。いや今は一般的にこのタイプが多いのかも。逆にむかしのように年子やそれに近いきょうだいが生まれのが珍しくない時代なら、上の子供は「分離不安=融合欲動」傾向を持つ。融合欲動と分離欲動とは、別の言い方なら愛と闘争であり、むかしのほうがエロス欲動タイプが多かった理由のひとつはたぶんここにある。
以下、図の用語の意味するところを引用列挙する。
◼️原マゾヒズム |
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子宮内生活は原ナルシシズムの原像である[la vie intrautérine serait le prototype du narcissisme primaire ](Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)ということになる。 |
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自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
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人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年) |
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◼️原不安=原トラウマ |
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不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
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オットー・ランクは『出産外傷[Das Trauma der Geburt]』にて、出生という行為は、一般に、母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなうと仮定した。これが原トラウマ[Urtrauma]である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要) |
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◼️融合不安➡︎貪り喰われる不安 |
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母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年) |
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メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957) |
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◼️「現前/不在」➡︎「現前過剰/不在過多」=「融合不安/分離不安」
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思い起こそう、いかにラカンがDMを設置したかを。一者のシニフィアン[Un signifiant]、つまり母の欲望[le désir de la mère ]を。ーー、母は常に乳幼児とともにいるわけではない[Un signifiant, le désir de la mère – elle n'est pas tout le temps auprès de son petit, elle l'abandonne et revient]。子供を捨て去りまた帰ってくる。行ったり来たりする。現れては消える[elle n'est pas tout le temps auprès de son petit, elle l'abandonne et revient, il y a des va-et-vient, des apparitions et disparitions]、これが一者のシニフィアンDMとしての登録を正当化する[ce qui justifie de l'inscrire comme un signifiant –, DM]。……現前と不在のシニフィアン[le signifiant de sa présence et de son absence]としての「母の欲望 le désir de la mère」であり、行ったり来たりのシニフィアン[le signifiant de ses va-et-vient.] である。 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse VI, 17 décembre 2008) |
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この母の欲望は、享楽の名のひとつである[ce désir de la mère, c'est un des noms de la jouissance. ](J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011 |
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◼️「ヒステリー/強迫神経症」=「融合/分離」 |
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強迫神経症言語は、ヒステリー言語の方言である。die Sprache der Zwangsneurose ist gleichsam nur ein Dialekt der hysterischen Sprache(フロイト 『強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕』 1909年) |
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神経症とは、内的な欲動を大他者に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスと融合欲動を取り扱うすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと分離欲動に執拗に専念することである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、OBSESSIONAL NEUROSIS, 2001) |
………………
なお、フロイトの不安とはラカンの享楽である。 ◼️不安=不快=享楽 |
不快(不安)[ Unlust-(Angst).](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) |
欲動要求[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快がある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse. ]。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004) |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne…ce que j'appelle le Réel] (ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノdas Dingの場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding. ](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,] (Lacan, S7, 20 Janvier 1960) |