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2021年12月7日火曜日

颯チャン、颯チャン、痛イヨウ!

 


谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』を読むのは、四度目ぐらいだが、今回は、それほど長くないこの小説を、一週間ぐらいかかったか、立ち止まりずつ、思いをめぐらしつつ、舐めるように読んでみた。


以下は気に入った箇所のあくまでさわりである。


十月九日

〔・・・〕


「接吻シテクレヽバ痛イノヲ忘レルヨウ」

「足ナンカジャ駄目ダヨウ」

「ネッキングデモ駄目ダヨウ」

「ホントノ接吻デナクッチャイヤダヨウ」

コンナ工合ニ散々駄々ヲ捏ネテ泣キ声ヲ立テ、悲鳴ヲ上ゲテ見タラドウカ。サシモノ彼女モ仕方ナク折レテ来ヤシナイカ。二三日ウチニ一ツ実行シテ見ルカナ。

「最モ痛イ時ヲ狙ッテ」ト云ッタガ、本当ニ痛イ時デナクテモイヽ、痛イ振リヲシテヤレバイヽ。タヾコノ髯ダケハ剃ッテ置キタイナ。四五日剃ッテイナイノデ顔ジュウ髯ダラケニナッテイル。コノ方ガ病人臭クテ却テ効果的ナンダガ、接吻ノ場合ヲ考エルト、コンナニ髯ボウ〳〵トシテイタンジャ都合ガ悪イ。入レ歯ハ矢張外シテ置コウ。ソシテ口中ハ目立タヌヨウニ清潔ニシテ置コウ。………

ナンカント云ッテルウチニ、今日モ夕方カラ痛ミ出シタ。モウ何モ書ケナイ。………筆ヲ放リ出シテ佐々木ヲ呼ブ。………





ここで品のないフロイトを挿入することを、谷崎に許してもらわねばならない。



マゾヒストは、小さな、寄る辺ない、依存した子供、しかしとくに徒ッ子として取り扱われることを欲している[der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will, besonders aber wie ein schlimmes Kind.](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)








十三日


「颯チャン! 痛イヨウ!」ト、覚エズ叫ビ声ガ出タ。ヤッパリコンナ声ハ本当ニ痛イノデナケレバ出ナイ。痛イ振リヲシタンデハ斯クノ如ク真ニ迫ッタ声ハ出ナイ。第一彼女ヲ「颯チャン」ナンテ呼ンダコトハ一度モナイノニ、ソレガ自然ニ出タ。ソウ呼ベタコトガ予ニハ嬉シクッテ溜ラナカッタ。痛イナガラ嬉シカッタ。「颯チャン、颯チャン、痛イヨウ!」マルデ十三四ノ徒ッ子ノ声ニナッタ。ワザトデハナイ、ヒトリデニソンナ声ニナッタ。

「颯チャン、颯チャン、颯チャンタラヨウ!」ソウ云ッテイルウチニ予ハワア〳〵ト泣キ出シタ。眼カラハダラシナク涙ガ流レ出シ、鼻カラハ水ッ洟ガ、口カラハ涎ガダラ〳〵ト流レ出シタ。ワア、ワア、ワア、―――予ハ芝居ヲシテルンジャナイ、「颯チャン」ト叫ンダ拍子ニ俄ニ自分ガ腕白盛リノ駄々ッ子ニ返ッテ止メドモナク泣キ喚キ出シ、制シヨウトシテモ制シキレナクナッタノデアル。アヽ己ハ実際気ガ狂ッタンジャナイカナ、コレガ気狂イト云ウモンジャナイカナ?

「ワア、ワア、ワア」気ガ狂ッタラ狂ッタデイヽ、モウドウナッタッテ構ウモンカ、予ハソウ思ッタガ、困ッタコトニ、ソウ思ッタ瞬間ニ急ニハット自省心ガ湧キ、気狂イニナルノガ恐クナッタ。ソシテソレカラバ明カニ芝居ニナリ、故意ニ駄々ッ子ノ真似ヲシ出シタ。

「颯チャン、颯チャン、ワア、ワア、ワア、―――

「オ止シナサイヨ、オ爺チャン」

サッキカラ少シ薄気味悪ソウニ黙ッテジット予ノ表情ヲ見ツメテイタ颯子ハ、偶然眼ト眼ガ打ツカリアッタラ、咄嗟ニ予ノ心ノ変化ヲ看テ取ッタラシイ。

「気狂イノ真似ナンカシテルト今ニホントノ気狂イニナルワヨ」

予ノ耳元ヘ口ヲ寄セテ、ヘンニ落チツイタ、冷笑ヲ含ンダ低イ声デ云ッタ。

「ソンナ馬鹿々々シイ真似ガ出来ルト云ウノガ、モウ気狂イニナリカケテル證拠ヨ」

声ノ調子ニ、頭カラ水ヲ浴ビセルヨウナ皮肉ナモノガアッタ。

「フヽン、アタシニ何ヲサセヨウッテ仰ッシャルノヨ。ソンナ泣キ声ヲ出スウチハ何モシタゲナイワヨ」

「ジャア泣クノヲ止メル」

予ハイツモノ予ニナッテ、ケロリトシテ云ッタ。

「当リ前ヨ、アタシ強情ッ張リダカラ、ソンナ芝居ヲサレルト尚更依怙地ニナルワ」

モウコレ以上クダ〳〵シク書クノハ止メル。接吻ニハ遂ニ逃ゲラレテシマッタ。口ト口ト合ワセナイデ、互ニ一センチホド離レテ、アーント口ヲ開ケサセテ、予ノ口ノ中ヘ唾液ヲ一滴ポタリト垂ラシ込ンデクレタヾケ。

「サ、コレデイヽデショ、コレデイヤナラ勝手ニナサイ」

「痛イ、痛イ、痛イコトハ本当ナンダヨ」

「コレデイクラカ直ッタ筈ヨ」

「痛イ、痛イ」

「又ソンナ声ヲ出ス! アタシ彼方ヘ逃ゲテクカラ、一人デ勝手ニ泣イテラッシャイ」

「ネエ颯子、コレカラ時々『颯チャン』ト呼バシテオクレヨ」

「馬鹿ラシイ」

「颯チャン」

「甘ッタレ坊主ノ嘘ツキ坊主、誰ガソノ手ニ載ルモンデスカ」

プリ〳〵怒ッテ行ッテシマッタ。  

………………………………………………………………………………………………






「今日ハ唇ダケデナクッテモイヽ、舌ヲ着ケテモイヽ」予ハ七月二十八日ト同ジ姿勢デ、彼女ノ脹脛ノ同ジ位置ヲ唇デ吸ッタ。舌デユックリト味ワウ。ヤヽ接吻ニ似タ味ガスル。ソノマヽズル〳〵ト脹脛カラ踵マデ下リテ行ク。意外ニモ何モ云ワナイ。スルマヽニサセテイル。舌ハ足ノ甲ニ及ビ、親趾ノ突端ニ及ブ。予ハ跪イテ足ヲ持チ上ゲ、親趾ト第二ノ趾ト第三ノ趾トヲ口一杯ニ頬張ル。予ハ土蹈マズニ唇ヲ着ケル。濡レタ足ノ裏ガ蠱惑的ニ、顔ノヨウナ表情ヲ浮カベテイル。「モウイヽデショ」急ニシャワーガ流レ始メタ。彼女ノ足ノ裏ト予ノ頭ダノ顔ダノヲ水ダラケニシテ。………



またまた失礼します、フロイトなんて。


足フェティシズムの最も簡潔な定式は、マゾヒズム的な秘密の覗きである[Die kürzeste formel für den Fussfet.wäre: in masochistischer Geheimseher. ](フロイト「足フェティシズムの事例」Ein Fall von Fußfetischismus, 1914年ーーオットー・ランク等同僚との未発表議事録)




◼️潤一郎より渡辺千萬子


九日附お手紙拝見

〔・・・〕

あなたは「私には意地の悪い性質がある」と自分でも云っておられましたが病院のおじいちゃんも熱海の二人のバアバも君を尊敬し畏れている反面 君にそう云う短所のあることを認めているようです、あなたが自分でそう云う以上それは事実かもしれませんが私はまだ実際にあなたのそれを見せて貰ったことがありません あなたが私に遠慮しているのだとすれば私はむしろあなたを水臭く感じます あなたに意地悪されるくらいで私の崇拝の情は変るものではありません


橋本家高折家を通じて故関雪翁の天才の一部を伝えている人はあなた一人だと思います あなたの顔や手脚には その天才の閃きがかがやいて見えそれ故に一層美しく見えるのです しかし天才者には大概意地悪のような欠点があるものなのであなたの場合もそれなのでしょう


つまりあなたは鋭利な刃物過ぎるのです その欠点は直せるものなら直すに越したことはありませんが 少なくとも私だけには遠慮する必要はありません 私はむしろ鋭利な刃物でぴしぴし叩き鍛えてもらいたいのです そうしたらいくらか老鈍さが救われるでしょう あなたのことは正直に書き出すと際限がありませんから今日はこれだけにしておきます 


あまり無遠慮に書き過ぎて赦して下さい


二月十五日

     潤




ここで時に的外れなこともいう哲学者ドゥルーズ を引用するのを、谷崎に許してもらわねばならない。


マゾヒストは専制的女性を養成せねばならない。〔・・・〕マゾヒストは本質的に訓育者なのである[Il faut que le masochiste forme la femme despote. ... Il est essentiellement éducateur. ](ドゥルーズ『マゾッホとサド』)









「サア颯チャン、何モ面倒ナコトハナインダ。ソノマヽコヽヘ来テ、コノシーツノ上ニ仰向ケニ寝テクレヽバイヽ。アトノ仕事ハ僕ガスル」

「コノマヽデイヽノ? 着物ニ朱墨ガ附キハシナイ?」

「絶対ニ着物ニハ附ケナイ、朱墨ヲ塗ルノハ君ノ足ノ裏ダケダ」

彼女ハ云ワレル通リニシタ。仰向ケニ、両足ヲ行儀ヨク揃エテ寝タ、足ヲ少シ反ラシ加減ニ、予ニ足ノ裏ガ明瞭ニ見エルヨウニ。コレダケノ準備ガ整ッタ時、予ハ先ズ第一ノタンポニ朱ヲ含マセタ。ソレカラ更ニソレヲ以テ第二ノタンポヲ叩キ、朱ヲ薄クシタ。予ハ彼女ノ二ツノ足ヲ二三寸ノ間隔ニ開イテ置キ、右ノ足ノ裏カラ第二ノタンポデ注意深ク叩イテ行ッタ。肌理ノ一ツ〳〵ガハッキリト分離サレテ印サレルヨウニ。盛リ上ッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ、継ギ目ガナカ〳〵ムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ、手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。


「絶対ニ着物ニハ附ケナイ、足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ、シバ〳〵失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバ〳〵失敗シ、足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ、塗リ直シタリスルコトガ、又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ〳〵ヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』1961年)






私はちやうど学校から帰つて、台所の板の間で氷あづきを食べてゐた。そして地震と気がついた瞬間には、早くも街頭に飛び出してゐた。〔・・・〕前から私と一緒だつたのか、その時に追ひ着いたのか、私は始めて、母が私をぎゆつと抱きしめてゐるのに心づいた。〔・・・〕私の顔は母の肩よりなほ下にあつたので、襟をはだけた、白く露はな彼女の胸が私の眼の前を塞いでゐた。見ると私は、さつきは確かに氷あづきを食べてゐて、地震と同時にそれを投げ捨て、戸外へ走り出た筈だのに、いつの間に何処でどうしたのか、右手にしつかりと習字用の毛筆を握ってゐた。そして、四つ角のまん中で相抱きつ、よろめき合つてゐる間に、私は母の胸の上へ数条の墨跡を黒々と塗り付けてゐた。(谷崎潤一郎『幼少時代』1955年)





母の顔だちのことについては今迄いろいろな折に書いたことがあるが、私はよく、母が美人に見えるのは子の欲目ではないか知らん、誰でも自分の母の顔は綺麗にみえるのではなからうか、と、さう思ひ思ひした。顔ばかりでなく、大腿部の辺の肌が素晴しく白く肌理が細かだつたので、一緒に風呂に這入つてゐて思はず、ハッとして見直したこともたびたびであつた。じつと見てゐると白さが一層際立つて来る感じがしたが、あゝ言ふ白さは今の人の白さとは違ふ。あの時分の女性は今のやうに外気に触れず、体の大部分を衣服で包み、日あたりの悪い、昼も薄暗い深窓に垂れ籠めて暮らしてゐたので、あゝ云ふ白さになつたのであらうか。(谷崎潤一郎『幼少時代』1955年)