ラカンは最初から最後までずっと言ってるんだよ、享楽はフロイトのマゾヒズムだって。だから寝言言ってたらダメだ、ファルス享楽の先に他の享楽があるなどと。そんなのは象徴秩序(ファルス秩序)から見たら、敢えて言わないまでも当たり前のことだ。繰り返し強調すれば、アンコールの性別化の式のアレラは単なる二次的なものに過ぎない。いわばおバカな哲学者向けだ。論理的に考えるだけで人間の実相を見ない連中向けだ。
重要なのは人は根にみなマゾヒズムをもっていて、ハリボテファルスで防衛しているということだ。最初に現実界があり、象徴界はそれに対する抑圧だということだ。フロイト語彙で言えば、原初にエスがあり自我–言語による防衛があるということだ。フロイトがグロデック=ニーチェに準拠したエスの定義は、《我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力(エス)によって「生かされている 」was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten》(『自我とエス』)だ。そして受動性のフロイトの定義はマゾヒズムだ。
フロイトラカンの精神分析の核はここにしかない。
以下、ラカンのマゾヒズムの主要なものを列挙しよう。
◼️1946年 |
フロイトがそのメタ心理学において、「死の本能」と「原マゾヒズム 」の名の下に、探し求めようとしたもの[ce que Freud a cherché à- situer dans sa métapsychologie sous le nom d'instinct de mort ou encore de masochisme primordial](Lacan, Propos sur la causalité psychique , Ecrits 187, 1946、摘要) |
◼️1963年 |
大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。…問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安…この不安がマゾヒストの盲目的目標である。 D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance. … Où est cet Autre dont il s'agit ? …toujours présent dans la jouissance perverse, …situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, (ラカン, S10, 6 Mars 1963) |
◼️1966年 |
私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産![misérables avortons de philosophie!]我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣[habits qui se morcellent ]を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 [façon de batifoler]以外の何ものでもない。〔・・・〕 真理についての唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能、享楽という原マゾヒズムである。cette question qui est la seule, sur la vérité et ce qui s'appelle - et que FREUD a nommée - l'instinct de mort, le masochisme primordial de la jouissance,〔・・・〕全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966) |
◼️1969年 |
フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969) |
死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969) |
◼️1976年 |
享楽は現実界にある。現実界の享楽はマゾヒズムから構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert, ](Lacan, S23, 10 Février 1976) |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。 Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか! es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕 |
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
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