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2021年12月18日土曜日

悦の王[Herren der Lust](リルケ)

 前々回、次のリルケを引用した。


愛するものを歌うのはよい。しかし、あの底ふかくかくれ棲む罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別なことだ。恋する乙女が遥かから見わけるいとしいもの、かの若者みずからは、その悦の王[Herren der Lust]について何を知ろう。

EINES ist, die Geliebte zu singen. Ein anderes, wehe, jenen verborgenen schuldigen Fluß-Gott des Bluts. Den sie von weitem erkennt, ihren Jüngling, was weiß er selbst von dem Herren der Lust, 〔・・・〕


聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。星々よ、いとしい恋人への彼の乞いは、あなたから来るのではなかったか。

Horch, wie die Nacht sich muldet und höhlt. Ihr Sterne, stammt nicht von euch des Liebenden Lust zu dem Antlitz seiner Geliebten 〔・・・〕


朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ、あなたの出現がかれをかほどまでに激動さしたと、あなたはほんとうに信ずるのか。まことにあなたによってかれの心は驚愕した。けれど、もっと古くからの恐怖がこの感動に触発されてかれの中へと殺到したのだ。彼を揺すぶれ、目覚めさせよ…しかしあなたは、彼を暗いものとの交わりから完全に呼びさますことはできない。Meinst du wirklich, ihn hätte dein leichter Auftritt also erschüttert, du, die wandelt wie Frühwind? Zwar du erschrakst ihm das Herz; doch ältere Schrecken stürzten in ihn bei dem berührenden Anstoß. Ruf ihn . . .  du rufst ihn nicht ganz aus dunkelem Umgang. 


ーーリルケ『ドゥイノエレギー』第三歌より



これは基本的には手塚富雄訳からだが(もっとも一部変更している)、この第三の悲歌の最後のほうには次のようにある。これが悦の王[Herren der Lust]の意味であるだろう。



しかし内部には? 幼いものの内部に幾世代もつらぬきやまぬ奔流を誰が防ぎ止めることができよう? ああ、眠りつつあるかれの内部には、なんの見張りもなかった。眠りつつ、しかも夢におそわれーーしかも熱にうなされる。怖しいものらとかかりあう。新参の者としてためらいながら巻きこまれてゆく、いよよ延びはびこる心象の蔓草ともつれあいからみあって。早くも奇異なさまざまの生の図柄が、呼吸もふさがるほどの繁茂が、野獣のような疾駆の形姿が、そこに現出する。


Aber innen: wer wehrte, hinderte innen in ihm die Fluten der Herkunft?  Ach, da war keine Vorsicht im Schlafenden; schlafend, aber träumend, aber in Fiebern: wie er sich ein-ließ. Er, der Neue, Scheuende, wie er verstrickt war, mit des innern Geschehens weiterschlagenden Ranken schon zu Mustern verschlungen, zu würgendem Wachstum, zu tierhaft jagenden Formen. 


いかにかれはそれに身をゆだねたことか。ーー愛したことか。愛したのだかれは、おのが内部を、おのが内部の荒野を、その鬱林を。そこには崩れ落ちた声なき岩塊が磊々としてよこたわり、かれの心の若木は、その亀裂からうす緑して頭をのぞかしてふるえているだけだった。愛したのだ、この風景を。しかもそこからかれはさらに進んだ、おのれ自身の根にそい、さらにそれを突き抜けて、かれ自身の小さい生誕を遠く越えた強力な起原の場にはいる。


Wie er sich hingab -. Liebte. Liebte sein Inneres, seines Inneren Wildnis, diesen Urwald in ihm, auf dessen stummem Gestürztsein lichtgrün sein Herz stand. Liebte. Verließ es, ging die eigenen Wurzeln hinaus in gewaltigen Ursprung, wo seine kleine Geburt schon überlebt war.


愛しながら、かれはこのより古い血のなかへ、峡谷の底へ向った。そこにはあの怖しい怪獣が、われわれの祖たちの血に飽きてよこたわっている。そして、そこに棲むものすごいすべてのものは、すでにかれ、この若者を知っていて、目くばせした、かれの気持はとうによく知っているとでもいうように。いや、怪獣は微笑をすら送ったのだ……


Liebend stieg er hinab in das ältere Blut, in die Schluchten, wo das Furchtbare lag, noch satt von den Vätern. Und jedes Schreckliche kannte ihn, blinzelte, war wie verständigt. Ja, das Entsetzliche lächelte . . .  


母よ、あなたでさえこれほど甘やかな微笑をみせたことはなかった。どうしてかれはその怪獣を愛せずにいられただろう。それがかれにむかってほほえみかけた以上は。あなたへの愛に先き立って、かれはそれを愛したのだ。なぜならあなたがかれを身ごもっていたときから、その怪獣は、胎児のかれを泛べている液体にすでに溶けこんでいたのだから。みよ、われわれは野の花のように、たった一年のいのちから愛するのではない、われわれが愛するときわれわれの肢体には記憶もとどかぬ太古からの樹液がみなぎりのぼるのだ。


Selten hast du so zärtlich gelächelt, Mutter. Wie sollte er es nicht lieben, da es ihm lächelte. Vor dir hat ers geliebt, denn, da du ihn trugst schon, war es im Wasser gelöst, das den Keimenden leicht macht. Siehe, wir lieben nicht, wie die Blumen, aus einem einzigen Jahr; uns steigt, wo wir lieben, unvordenklicher Saft in die Arme. 


おお乙女よ、このことなのだ、愛しあうわたしたちがたがいのうちに愛したのは、ただ一つのもの、やがて生まれ出ずべきただ一つの存在ではなくて、沸き立ちかえる無数のものであったのだ。それはたったひとりの子供ではなく、崩れ落ちた山岳のようにわれらの内部の底いにひそむ父たちなのだ、過去の母たちの河床の跡なのだーー。雲におおわれた宿命、または晴れた宿命の空のもとに、音もなくひろがっている全風景なのだ。このことが、乙女よ、おんみへの愛より前にあったのだ。そしておんみも、みずからは知らぬまにーー、おんみを愛する若者の内部に、太古をいざない揺り起したのだ。


O Mädchen, dies: daß wir liebten in uns, nicht Eines, ein Künftiges, sondern das zahllos Brauende; nicht ein einzelnes Kind, sondern die Väter, die wie Trümmer Gebirgs uns im Grunde beruhn; sondern das trockene Flußbett einstiger Mütter -; sondern die ganze lautlose Landschaft unter dem wolkigen oder reinen Verhängnis -: dies kam dir, Mädchen, zuvor. Und du selber, was weißt du -, du locktest Vorzeit empor in dem Liebenden. Welche Gefühle wühlten herauf aus entwandelten Wesen. (リルケ『ドゥイノの悲歌』第三歌、手塚富雄訳だが一部変更)





このリルケはラカンのラメラ神話[le mythe de la lamelle]の詩的先行版として読める。その意味するところが実によく似ている。➡︎ラメラ神話


悦の王[Herren der Lust]とはそのままでも言いのだが、敢えて現在流通しているラカン訳語を使用すれば、享楽の王である。


我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する[ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance]. (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)


ここでのlust=jouissanceとは快原理の彼岸にある悦ということで、フロイトの死の欲動と等価である。


反復強迫と直接的な悦的欲動満足 [Wiederholungszwang und direkte lustvolle Triebbefriedigung]とは、緊密に結合しているように思われる。

Wiederholungszwang und direkte lustvolle Triebbefriedigung scheinen sich dabei zu intimer Gemeinsamkeit zu verschränken. (フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)



あとは死の欲動が愛の欲動でもあることを人が受け入れるなら、リルケの悦の王とは、エロトスの王とすることができる。


ラカンによる享楽とは何か。…そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ](J. -A. MILLER, LES DIVINS DETAILS,  1 MARS 1989ーー愛の欲動は死の欲動である[Liebestriebe ist Todestriebe])



もともとドゥイノの第八の悲歌は母胎回帰憧憬詩だとしばしば言われる。



おお、小さな生き物の至福さよ。

それはいつまでも胎内に在る、それを月満ちるまで懐妊し

ていた母胎のなかに。

おお、蚊の幸福よ、それは婚礼の時でさえ

なお母胎のなかで踊っている。というのも一切が母胎なのだから。


O Seligkeit der kleinen Kreatur,

die immer bleibt im Schooße, der sie austrug;

o Glück der Mücke, die noch innen hüpft,

selbst wenn sie Hochzeit hat: denn Schooß ist Alles.


ーーリルケ、ドゥイノ第八の悲歌



だがドゥイノエレジー全体がそれに関わっているのではないか。ドゥイノでは果実の隠喩が多用されている。いちじく、葡萄、林檎の芯等々。リルケにとって果実は母胎の隠喩である。少なくとも『マルテの手記』では明らかにそうである。



昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた(あるいはおそらくそう感じていた)。子どもは小さな死を、おとなは大きな死を自らのなかにひめていた。女は死を胎内に、男は胸内にもっていた。誰もが死を宿していた。それが彼らに特有の尊厳と静謐な品位を与えた。

Früher wußte man (oder vielleicht man ahnte es), daß man den Tod in sich hatte wie die Frucht den Kern. Die Kinder hatten einen kleinen in sich und die Erwachsenen einen großen. Die Frauen hatten ihn im Schooß und die Männer in der Brust. Den hatte man, und das gab einem eine eigentümliche Würde und einen stillen Stolz.(リルケ『マルテの手記』1910年)

女が孕んで、立っている姿は、なんという憂愁にみちた美しさであったろう。ほっそりとした両手をのせて、それとは気づかずにかばっている大きな胎内には、二つの実が宿っていた、嬰児と死が。広々とした顔にただようこまやかな、ほとんど豊潤な微笑は、女が胎内で子供と死とが成長していることをときどき感じたからではないか。

Und was gab das den Frauen für eine wehmütige Schönheit, wenn sie schwanger waren und standen, und in ihrem großen Leib, auf welchem die schmalen Hände unwillkürlich liegen blieben, waren zwei Früchte: ein Kind und ein Tod.  Kam das dichte, beinah nahrhafte Lächeln in ihrem ganz ausgeräumten Gesicht nicht davon her, daß sie manchmal meinten, es wüchsen beide? (リルケ『マルテの手記』1910年)


そして1925年の手紙にはこうある。


死とは、私たちに背を向けた生の相であり、私たちが決して見ることのない生の相です。すなわち私たちの実存[Daseins]の偉大なる気づきを可能な限り獲得するよう努めなければなりません。Der Tod ist die uns abgekehrte, von uns unbeschienene Seite des Lebens: wir müssen versuchen, das größeste Bewußtsein unseres Daseins zu leisten (リルケ書簡 Rainer Maria Rilke, Brief an Witold von Hulewicz vom 13. November 1925ーー「ドゥイノの悲歌」について)