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2022年2月10日木曜日

頭脳明晰な美女学者たちへの忠告


エリート学者あるいはその卵の範疇に明らかに入るだろう人たちが「反差別」にひどく熱くなっているのを最近見たが、あれらの方々は、入学試験をはじめとして、大学院、あるいは海外留学選別等々という典型的な差別のシステムを勝ち上がってきた人だな。


酒井直樹)差別はいろいろな形で存在しています。民族差別、人種差別、性差別についてはこれまで話になりましたが、それ以外の差別があります。家族内の人間と家族外の人間は当然差別されるし、会社内の人間と会社外の人間、さらには、会社や役所の上役と平の人は差別されます。入学試験、あれは典型的な差別のシステムです。ではこれらの差別のうちの何が問題になるのでしょうか。柄谷さんがいわれた形式的な平等にこれらの差別のうちの何が抵触し、何が抵触しないのでしょうか。家族の内外、会社の上下間、さらに入学試験の点数による差別でも、そこに、人種、民族、国民、身分、出自、性などの要素が絡まない限り、一般に差別として問題にされることはないでしょう。なぜ、ことさら、ある種の差別のみ取り上げて、それを弾劾しなければならないのでしょうか。(討論「ポストコロニアルの思想とは何か」鵜飼哲・酒井直樹・鄭暎恵・冨山一郎・村井紀・柄谷行人ーー『批評空間』11-1996)


あれらの方々の正義への過剰なコミットメントは、意識的あるいは無意識的かは別にして「やましい良心の裏返し」のようなところがあるんじゃないかね。 


ましてや性的魅力という生まれつきの差別資質をもっている人ならことさらだ。



私はコミュニズムを経済学的観点から批判するつもりはない。…しかし私にも、コミュニズム体制の心理的前提がなんの根拠もない錯覚[Illusion]であることを見抜くことはできる。


私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃欲[Aggressionslust] からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃性が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃性の本質そのものも変わっていない。

攻撃性は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛的結びつき・愛の結びつき[zärtlichen und Liebesbeziehungen] の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男児に対する母親の関係だけだろう。


物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性関係[sexuellen Beziehungen] の特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉[Quelle der stärksten Mißgunst und der heftigsten Feindseligkeit] にならざるをえないのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)

注)コミュニズムのような運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能[körperliche Ausstattung und geistige Begabung]をあたえることによって種々の不正 [Ungerechtigkeiten] を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)


ひどく頭脳明晰であったり性的魅力をプンプンさせている御方たちは、生まれつきの差別主義者に生まれたわけだからな。お上品な家庭環境自体が強度の差別意識を育んでいるだろうし。忠告しとくよ、良心の呵責が反転して、反差別というドクマの狂信者にならないようオキヲツケヲ!と。


善への過剰なコミットメントはそれ自体、最も大いなる悪になりうる。このリアルな悪とはあらゆる種類の狂信的なドグマティズムである。特に至高善の名の下に行使されるドグマだ。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)