エリート学者あるいはその卵の範疇に明らかに入るだろう人たちが「反差別」にひどく熱くなっているのを最近見たが、あれらの方々は、入学試験をはじめとして、大学院、あるいは海外留学選別等々という典型的な差別のシステムを勝ち上がってきた人だな。 |
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酒井直樹)差別はいろいろな形で存在しています。民族差別、人種差別、性差別についてはこれまで話になりましたが、それ以外の差別があります。家族内の人間と家族外の人間は当然差別されるし、会社内の人間と会社外の人間、さらには、会社や役所の上役と平の人は差別されます。入学試験、あれは典型的な差別のシステムです。ではこれらの差別のうちの何が問題になるのでしょうか。柄谷さんがいわれた形式的な平等にこれらの差別のうちの何が抵触し、何が抵触しないのでしょうか。家族の内外、会社の上下間、さらに入学試験の点数による差別でも、そこに、人種、民族、国民、身分、出自、性などの要素が絡まない限り、一般に差別として問題にされることはないでしょう。なぜ、ことさら、ある種の差別のみ取り上げて、それを弾劾しなければならないのでしょうか。(討論「ポストコロニアルの思想とは何か」鵜飼哲・酒井直樹・鄭暎恵・冨山一郎・村井紀・柄谷行人ーー『批評空間』11-1996) |
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あれらの方々の正義への過剰なコミットメントは、意識的あるいは無意識的かは別にして「やましい良心の裏返し」のようなところがあるんじゃないかね。 ましてや性的魅力という生まれつきの差別資質をもっている人ならことさらだ。
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