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2022年2月11日金曜日

女が嫌われるのは宿命

 


(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に[une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ]〔・・・〕

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


母なる女というのは原支配者なんだから享楽という不快を与えるんだよ。ここでの享楽とは、フロイトの受動性だーー《原初の不快の経験は受動性である[primäres Unlusterlebnis …passiver Natur]》 (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)。ま、ほかにもいろんな用語があるがね[参照]。





で、すべての女はこの全能の母の影が落ちているのだから、女が嫌われるのは宿命だよ。


母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」What is it, son?


この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで[from sexism to misogyny ]。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)

母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]〔・・・〕

全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある[La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)


特に後年の人生で女たちが男を受動的立場に置くような言動をしたら、ほとんどすべての男は血が疼くんだよ、母なる女に受動的立場に置かれた幼児期の原トラウマが回帰してさ。ーー《結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz]》(フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


もっとも真のマゾヒズム系の男は別で感激するかも知れないけどさ。


オープンレターの問題というのはいろいろな相があるけど、この面から観察するとまた違った世界が開けるよ。ちょっと登場人物が小粒すぎて物足りないが、それは「妄想」で補えばすむことさ。で、ボクはニヤニヤしながら観察してんだ(ボクはもともと学者というのはあの程度のバカがほとんどだという先入主があるーーとも言っておくよ。だからあの1300人をバカと言ってもしょうがないんだ。それよりその防衛症状形態に関心がある)。


もっともーー話を「原不快の対象」に戻せばーー全能の母の後継者である女たちは、原不快の対象ではありながら原愛の対象の後継者でもあるからな。



母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって原誘惑者になる。[ Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ]


この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)


ここが一番複雑なとこだよ、原不快の対象であり原愛の対象の後継者の女たちってのは。


何はともあれ男にはある程度の不快に耐える度量は必要じゃないかね、最近の若いのにはまったくなさそうに見えるけど。不快というのは実は快原理の彼岸にある快(悦)なんだから("lust"という語は快原理内なら「快」、快原理の彼岸なら「悦」と訳すべきだ)。自我心理学にはまっているとこの機微がまったくわからない。自我にとっての不快はエスにとっての快(悦)だ。その悦を与えるのが母なる女だ。


フロイトラカンというのは何よりもまず次の三文を処理することだな。


不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

我々は、フロイトが Lust と呼んだものを享楽と翻訳する[ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance.] (J.-A. Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)

反復強迫と直接の悦的欲動満足とは、緊密に結合しているように思われる。

Wiederholungszwang und direkte lustvolle Triebbefriedigung scheinen sich dabei zu intimer Gemeinsamkeit zu verschränken. 〔・・・〕反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 、一次的、かつ欲動的であるように思われる。Wiederholungszwanges rechtfertigt, und dieser erscheint uns ursprünglicher, elementarer, triebhafter als das von ihm zur Seite geschobene Lustprinzip. (フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)



これはニーチェの『ツァラトゥストラ』に頻出する"Lust"も同様。永遠回帰とは何よりもまず反復強迫のことでありーーラカンの享楽の回帰、《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)ーー、ここを処理していなければニーチェを読んだことにならない。力への意志[Wille zur Macht]自体、悦への意志[Wille zur Lust]と言い換えうる。・・・とゼンゼン話が脇道に逸れてしまうが何の話してたんだっけな。



えーっと・・・ボクは三十代前半に真に不快な女と出会って泥沼に嵌っちまったけどさ。一度でいいから早いとこ経験しとくことだよ、"Lust"を体感するためにも。狂わないとな、快原理の彼岸に突入しないとな。


相手が女だと、憎しみの情に、好奇心や、親しくなりたいという欲望、最後の一線を越えたいという願望などといった、好意のあらわれを刻みつけることができる。(クンデラ『冗談』)

人は嫌いというところがなければ、好きになりません。この女とだけは寝たくない、という場合に限って、むずかしい関係になるものです。(古井由吉『人生の色気』)