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2022年2月9日水曜日

イボタの繁みからの女のせせら笑い

 


すべての男たちは女の子宮内部の斑状組織[flecks of tissue inside a woman's womb]として始まっている。どの少年も母なる神性の影からよろよろと歩み出す。だがそこから十全に逃れ去ることは決してない。 (Camille Paglia, " No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality"1994)


何十年ものあいだの研究の後、私は感じている、男たちは女たちへの依存の感覚に苦しんでいると。これは、どんな瞬間においても、男たちは奴隷と隷従へ回帰されてしまう感覚だ。彼らが母の影のなかで少年だったとき、女の親指の元に経験したあの隷従。私はこれをすべての世界の文化から学んだ。比較し注視した、なんとしばしば多くの異なった文化において類似したパターンがあることかと。レイプや暴力、殴打等々の爆発をもたらす数多くの事態が起こるのは、女が不安と依存のボタンを押すときだ。  (Camille Paglia, "Rape and Modern Sex War",1992)


カミール・パーリアが多くをフロイトから学んでいることは「泥まんじゅう作りから逃れるために」にて示したが、ここで示すパーリアの主張も完全にフロイトラカンの精神分析的思考圏内にある。そもそもラカンの享楽の原点にあるのは、喪われた子宮である。➡︎享楽と出産外傷



例えば男たちはなぜ徒党を組んで女たちに抵抗しようとするのか。それ自体、女に対する囚われの身であることに起源がある。


現代のフェミニストたちーー大部分は貧弱で狭隘に訓練された学者たちーーは、男の圧制と女の犠牲というお涙頂戴のシナリオとしての歴史観を言い張っている。だがもっと厳密に観察すれば、男たちは母から離れ去る性的不安に駆り立てられ、ホモソーシャルな集団結合を形成し、社会・芸術・科学・技術の複合構造を創造してきたのが判然とする。〔・・・〕


私が言っていることは、両性の間の問題は社会化に先立った何ものかから来るということだ。この社会的不穏さ[turbulence]は、どの少年の起源も女の身体のなかにあったことに関係する。少年は幼児期から圧倒されている、この途方もない母権的な神の形象の影に。  (Camille Paglia, "Sex, Art and American Culture",1992)



巷間のおバカなフェミニストやそれを鵜呑みにしている教養あるマヌケ女以外の真の女たちは、アンチフェミニストのボウヤたちを同情しつつ密かに笑っている可能性を疑ったことがないってのは、よほどニブイんだろうよ


大学人に性的啓蒙を探し求めてはならない。連中は書物の山を吐き出すが、決して生をじかに観察していない。 (Camille Paglia, Rape and Modern Sex War, 1992)


社会的力を無闇に欲しがるフェミニズムは、女の無限の性的力に盲目だ。(Camille Paglia, Rape and Modern Sex War, 1992)

女たちが悟らなければならないことは、性においての女たち自身の支配だ。女たちの性的力は圧倒的だ。すべての文化はそれを示している。男たちはそれを知っている。女たちはそれを知っている。唯一知らないのはフェミニストたちだ。脱官能化され、脱性化された、神経症的女たちだ。(Camille Paglia, The Rape Debate, Continued, 1992)




フェミニストだけではない、アンチフェミニストのボウヤたちも耳が遠いんだろうよ、あの笑い声が聞こえないのは、ーー《イボタの繁みから女のせせら笑いが/きこえてくる。》(西脇順三郎「六月の朝」)


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真の女は常にメデューサである[une vraie femme, c'est toujours Médée. ](J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)

メドゥーサの首は女性器を代表象する[das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt, ](フロイト『メデューサの首』(1940 [1922])  


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メドゥーサの首 》と呼ぶ[rêve de l'injection d'Irma, la révélation de l'image terrifiante, angoissante, de ce que j'ai appelé  « la tête de MÉDUSE »]。あるいは、名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象そのものがある[l'objet primitif par excellence,]…すべての生が出現する女陰の奈落 [- l'abîme de l'organe féminin, d'où sort toute vie]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[- aussi bien le gouffre et la béance de la bouche, où tout est englouti,   ]、すべてが終焉する死のイマージュ [- aussi bien l'image de la mort, où tout vient se terminer,]…(Lacan, S2, 16 Mars 1955)


メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957)

母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)