このブログを検索

2022年2月13日日曜日

ボウヤはまず次のことを学んだほうがいいわ


愛という語[Wort »Liebe«]…この語ががこれほど頻繁にくりかえされてしかるべきものとは思えなかった。それどころか、この二音綴は、まことにいとわしきもの「recht widerwärtig]と思えるのだった。水っぽいミルクとでもいうか、青味を帯びた白色の、なにやら甘ったるいしろもののイメージに結びついていた [eine Vorstellung verband sich für ihn damit wie von gewässerter Milch, - etwas Weißbläulichem, Labberigem](トーマス・マン『魔の山』1924年)



ボウヤの愛は甘ったるいミルクだわ。とっても恥ずかしいわよ、いいトシして。ね、そこから少しでも逃れるためにはまず次のことを学んだほうがいいわよ



愛自体は、渇望・欠如である[Das Lieben an sich, als Sehnen, Entbehren] (フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

何よりもまず次のことを学ぼう。すなわち「愛する」とは「欠如している」[« j'aime », c'est : « je manque de »]という意味である。(J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)


「エロスはそのなにかを欲しているのだろうか、それとも欲してはいないのだろうか?」「もちろん、欲しています」と彼は言った。「それでは、エロスがそのなにかを欲し求めるのは、それを所有しているときだろうか、それとも、所有していないときだろうか?」「所有していないときでしょう。おそらくですが」とアガトンは答えた。「ちょっと考えてほしいのだが」とソクラテスは言った。「おそらくではなく、必然的にそうなのではあるまいか― 欲するものがなにかを欲するのは、それが欠けているからであり、何も欠けていないなら欲しなどしないということは。アガトン、私には、このことが完全に必然的なことに思えるのだ。あなたはどう考える?」「賛成します」。

Ἔρως ἐκείνου, οὗ ἔστιν ἔρως, ἐπιθυμεῖ αὐτοῦ ἢ οὔ; Πάνυ γε, φάναι. 

Πότερον ἔχων αὐτὸ οὗ ἐπιθυμεῖ τε καὶ ἐρᾷ, εἶτα ἐπιθυμεῖ τε καὶ ἐρᾷ, ἢ οὐκ ἔχων; 

Οὐκ ἔχων, ὡς τὸ εἰκός γε, φάναι. Σκόπει δή, εἰπεῖν τὸν Σωκράτη, ἀντὶ τοῦ εἰκότος εἰ ἀνάγκη οὕτως, τὸ ἐπιθυμοῦν ἐπιθυμεῖν οὗ ἐνδεές ἐστιν, ἢ μὴ ἐπιθυμεῖν, ἐὰν μὴ ἐνδεὲς ᾖ; ἐμοὶ μὲν γὰρ θαυμαστῶς δοκεῖ, ὦ Ἀγάθων, ὡς ἀνάγκη εἶναι· σοὶ δὲ πῶς; Κἀμοί, φάναι, δοκεῖ. (プラトン『饗宴』200a



まず愛は欠如よ。後年のラカンは言語内の愛を欠如、言語外の欲動の身体における愛を穴と呼んだけど、ボウヤにはそんな難しい話はどうでもいいわ。愛は何ものかがないから、その何かを渇望するのよ。フロイトは飢え[Hunger]とも言ったわ。愛は飢えよ。