フロイトの愛は三つの相がある。
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フロイトの愛(リーベ[Liebe])は、ラカンの愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない[il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. ](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999) |
ラカンの愛はナルシシズムのことである。
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ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである。il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,[…] l'amour c'est le narcissisme (Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
愛と欲望…これはナルシシズム的愛とアタッチメント(愛着)的愛のあいだのフロイトの区別である。l'amour et le désir …la distinction freudienne entre l'amour narcissique et l'amour anaclitique〔・・・〕
ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、アタッチメント的愛は象徴界の軸にある。l'amour narcissique concerne l'amour du même, tandis que l'amour anaclitique concerne l'amour de l'Autre. Si l'amour narcissique se place sur l'axe imaginaire, l'amour anaclitique se place sur l'axe symbolique (J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992) |
つまりフロイトの愛(リーベ[Liebe])は、ラカンのナルシシズム、欲望、享楽のことである。フロイトにおいて自己への愛としての「ナルシシズム」は、自己愛[Selbstliebe]、大他者への愛としての「欲望」は、対象愛 [Objektliebe]である。
そして享楽とは欲動のこと。
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欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
ーーフロイトは欲動を愛の欲動[Liebestriebe]とも呼んだが、愛の欲動は死の欲動[Todestriebe]のことである[参照]。
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フロイトにおけるリーベの別名はリビドー(エロスエネルギー)である。
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リビドーはリーベ(愛)と要約できる[Libido ist …was man als Liebe zusammenfassen kann. ](フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年) |
すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと呼ぶ[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
つまり愛の三相はリビドーの三相である。
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リビドーの三相[Troi avatars de la libido]がある。
想像界の審級にあるリビドー 。ナルシシズムと対象関係の裏返しとしてリビドー。libido dans lê resistre de l'imaginaire. […] la réversibilité entre le narcissisme et la relation d'objet.
象徴界の審級の機能としてのリビドー 。欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー。libido en fonction du registe du symbolique. […] à I'éqüvalence du désir et du sens, exaçtement du sens métonymique
現実界の審級にある享楽としてのリビドー。la libido en tant que iouissance oui est du reeiste du réel (Jacques-Alain Miller, STLET, 15 mars 1995) |
そして現実界の享楽としてのリビドーは、《究極的には死とリビドーは結びついている[finalement la mort et la libido ont partie liée]》(J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)
| 死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969) | 死は愛である [la mort, c'est l'amour.](Lacan, L'Étourdit E475, 1970) |
これは晩年まで変わらない。
| 享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976) | 死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である[La pulsion de mort c'est le Réel …c'est la mort, dont c'est le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
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なぜ享楽という愛の欲動が死の欲動なのか。愛の欲動とは喪われた対象を取り戻そうとする欲動だから。究極の喪われた対象とは出生に伴って喪う母胎である[参照]。母胎を取り戻そうとする愛の欲動は、母なる大地への回帰に他ならず、ゆえに死の欲動である。対象愛あるいは自己愛とはこの愛の欲動に対する防衛である。
巷間で愛と呼ばれるものは、一般に、このリアルな愛を諦めてイマジネールな愛、シンボリックな愛で我慢することを指す。愛は諦めである。したがってどこかに常に不満が残る。前回、愛は飢えとしたが、リアルな愛を諦めざる得ないから人は常に飢えているのである。こういったことは既に多くの詩人たちが言語化している、例えば《人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか》(室生犀星『随筆 女ひと』1955年)。
シンボリックな愛、イマジネールな愛は偽の愛である。唯一、死が完全な愛、リアルな愛である。
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愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意志することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』 第2部「無垢な認識」1884年)
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完全になったもの、熟したものは、みなーー死を欲する![Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第9節、1885年)
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もちろんこの愛は、ニーチェ、フロイト、ラカン等の捉え方であり、人がこの考え方に抵抗があるなら、別の愛がありうるのかを模索したらよろしい。
とはいえ最も重要なのは、神への愛のたぐいの曖昧さーー無知蒙昧さーーに逃げないで、徹底的に考え抜くことである。
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ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての他の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然りである[Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott.](ニーチェ『善悪の彼岸』第67番、1986年)
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愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する[der Liebende will den unbedingten Alleinbesitz der von ihm ersehnten Person,]〔・・・〕すなわち愛はエゴイズムである[Liebe …Egoismus ist. ](ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)
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もちろん神への愛はその個人においてプラセボ効果があるのを認めるのに吝かではない。だが歴史的に見れば、害悪効果が目立つのも確かである。
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自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう![Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)
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愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、迷妄の力がそこでは絶頂に達する[Die Liebe ist der Zustand, wo der Mensch die Dinge am meisten so sieht, wie sie nicht sind. Die illusorische Kraft ist da auf ihrer Höhe, ebenso die versüßende, die verklärende Kraft. ](ニーチェ『反キリスト者』第23節、1888年)
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宗教は賎民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affairen](ニーチェ『この人を見よ』1888年)
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わたしは聖人になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……[Ich will kein Heiliger sein, lieber noch ein Hanswurst… Vielleicht bin ich ein Hanswurst… ]だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」――なぜなら、いままで聖人以上に嘘でかたまったものはなかったのだから[denn es gab nichts Verlogneres bisher als Heilige]ーーわたしの語るところのものは真理なのだ。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)
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信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。
もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである[Im Grunde ist ja jede Religion eine solche Religion der Liebe für alle, die sie umfaßt, und jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe. ](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)
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神の信者だけではない。何ものかの信者、イデオロギーの信者たちは常に魔女狩りへと誘惑される。この今のツイッター言論界でもオープンレターなる手法でフェミニズム宗教に反する者への魔女狩りが発生している。
魔女狩りが宗教戦争によって激化された面はあっても二次的なものである。この問題に関してだけはカトリックとプロテスタントがその立場を越えて互いに協力するという現象がみられるからである。互いに相手の文献や記述を引用しながら魔女狩りの根拠としてさえいる。さらに教会人も世俗人もともに協力しあった。つまり魔女狩りは非常に広範な ”合意" "共同戦線"によって行なわれた。そして組織的な警察などの治安維持機構のないところで、新知識のロー マ法的手続きで武装した大学卒の法官たちは、民衆の名ざすままに判決を下していった。市民法のローマ法化たとえばニュルンベルク法の成立と魔女狩りの開始は時期を一にする。
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法官は、サタンが契約によってその軍勢である魔女をどんどんふやして全人類のためのキリストの儀牲を空無に帰せしめようとしている、と観念した。多くの者の危機感はほんものであり、「焼けども焼けども魔女は増える一方である」との嘆声がきこえる。独裁者が被害妄想を病むことは稀れでないが、支配階層の相当部分がかくも強烈な集団被害妄想にかかることは稀れであって、次は『魔女の槌』に代わって四〇〇年後に『我が闘争』をテキストにした人たちまで待たなければならない。法における正義を追求したジャン・ポーダンのような戦闘的啓蒙主義者が、同時に苛烈な魔女狩り追求者であったことをどう理解すべきであろうか。おそらく共通項は、ほとんど儀式的・強道的なまでの「清浄性」の追求にあるだろう。世界は、不正と同じく魔女のようないかがわしく不潔なものからクリーンでなければならなかったのである。死刑執行費がか遺族に請求されたが、その書類の形式まで四O○年後のナチスと酷似しているのは、民衆の求めた祝祭的・豊饒儀礼的な面とは全く別のシニカルなまでに強迫的な面である。また、科学に類比的な面もないではなかった。すべての魔女を火刑にする酷薄さには、ペストに対してとられた、同様に酷薄な手段、すなわち患者を放置し患者の入市や看護を死刑をもって禁ずるという方法が有効であったことが影響を与えているだろう。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収)
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もっともフェミニズムは偉大かもしれない。人がその底にバウボへの信仰を見極めているなら。
生への信頼は消え失せた。生自身が「一つの問題」となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる「女への愛」 にほかならない・・・
Das Vertrauen zum Leben ist dahin; das Leben selber wurde ein P r o b l e m . ― Möge man ja nicht glauben, dass Einer damit nothwendig zum Düsterling, zur Schleiereule geworden sei! Selbst die Liebe zum Leben ist noch möglich, ― nur liebt man a n d e r s … Es ist die Liebe zu einem Weibe, das uns Zweifel macht…(ニーチェ対ワーグナー「エピローグ」1888年)
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恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女ではなかろうか? 恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?[Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?...] (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)
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一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)
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ひとりの女は異者である[une femme …c'est une étrangeté.] (Lacan, S25, 11 Avril 1978)
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異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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不気味なものは…(原)抑圧の過程によって異者化されている[Unheimliche…durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist. ](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年)
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神は不気味なものである[Gottes …Er ist ein unheimlicher](フロイト『モーセと一神教』2.4、1939年)
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女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
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