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2022年2月6日日曜日

おれは六十で/君は、十六だが、/ それでも、君は/ おれのお母さん。


ネットで金子光晴の或る詩句の前後はどうなっているのだろうと探っていたら、それだけではまったくなく膨大な引用に行き当たった。『定本金子光晴全詩集』がすべて引用されているように見える(敢えてリンクは貼り付けない)。

昨晩その三分の一程度は飛ばし飛ばし読んでみたのだが、ここではそのなかから気に入った箇所のサワリをいくつか列挙。

…………


 『君、すべての男は……すべての男だよ。一人でも多く異つた種類の女を欲するものなのだ。もし、さうでない男が在るとしたら、その男は無智識であるか、或ひは、臆病で自信がないといふことだけなのだ……』

と、Mが云つた。


『あなた、ちつとも女に就いて御存じがないのネ。女は、あなたのやうな物質的に貧弱なものの御考方に御相伴したがらないものよ。え、一人殘らず……贅澤な飼猫になりたいのよ。誰だつて妾になりうるのよ。もしさうでない女があるとしたら、その女は、そんな世界をしらないとか、或ひは、自分の力に就いて、魅惑に就いて自信がないとかいふこと丈なのですわ……』


とH子が、正面から私のSimpletonを揶揄した。


ーー海邊日記  金子光晴





愛情 1


 愛情のめかたは

二百グラム。


 僕の胸のなかを

茶匙でかき廻しても

かまわない。

どう? からつぽだらう。


――愛情をさがすには

熟練がいるのだ。

錠前を、そつと

あけるやうな。


――愛情をつかまへるには

辛抱が要る。

 狐のわなを

しかけるやうな。


 ――つまり、愛情をおのがものにするには大そうな覺悟が要るのさ。

愛情とひきかへにして、

ただより安く、おのれをくれてやる勇氣もいる。


 おのれ。そいつのねだんは

十三ルピ。




愛情 2


 おれは六十で

君は、十六だが、

それでも、君は

おれのお母さん。


 おお、おれの小さな耳搔きさん。

いとしいちりれんげ。


 海邊の白砂の

しめつたはだを、

さざなみがよせ

さざなみが退く。


さざなみが退き

さざなみがよせ、

いつかは、君はゐない。

いつかはおれもゐない。


 ありし日の君の

その頰は菫いろで

くちびるのいろは白。


 君のおへその蜘蛛の巢から

 はるばるきこえてくる

それは

むかしの子守唄。


 君のなげだした兩ももの

おくに

なにがあつても

どうでもいい。




つい最近引用したばかりだが、ここでも挿入しておこう。


ーー《quoad matrem(母として)、つまり女なるものは、母として以外には性関係へ入ることはない[quoad matrem, c'est-à-dire que La femme n'entre en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que la mère ]》(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)




愛情 4


 S・S孃よ、

その卵のやうなお尻を

すこしばかり

さすらせておくれ


 ほんのすこしばかり

君が氣にならぬほどでいいのだ。

ゆめゆめエロティスムなどと

いふやうなものではないのだから。


 君なら、そんなことを

すぐ忘れてくれられるだらう。

刑法などといふ

むづかしい問題ではない


 S・S孃よ。君のお尻の

なめらかさは、すばらしい。

きつと、僕の陰氣なこころが

あかるい方へ辷りだすのに

手をかしてくれるにちがひない。



ーー愛情69    金子光晴



犀星の《君は十四歳の膝といふものを僕に見せてくれたことがあるか》ってのも思い起こすね。


でもこういったのは理論的にはーーあくまで「理論的には」だけだがーーエディプス人格だと起こらないから、女性のみなさん、母親役がイヤだったら、家父長制ガチガチ男とのみとお付き合いなさることをオススメします。



父の隠喩は母を女に変える。La métaphore paternelle transforme la mère en femme…


(隠喩なき)父の機能は(隠喩とは反対に)女を母にするように見える。La fonction paternelle semble alors faire (contrairement à la métaphore) d’une femme une mère. (Sylvette PERAZZI , LES TROIS PERES ou la fonction paternelle, 2019)


ーー父の隠喩と父の機能が対比されていますが、後者は事実上、母の穴の境界表象に過ぎず隠喩機能はありません。父の隠喩こそ正統的なエディプス的父の名(家父長制システム)の効果をもっています。


もっとも一神教国でないと父の隠喩は事実上、機能していないという話もあるので、母親役をやりたくない女性は、東洋の男性はすべて避けたほうがよいかもしれません。弘法大師も昔から言っています、ーー《一切女人是我母(一切の女人これ我が母なり)》(弘法大師空海『教王経開題』)


さらにより厳密にラカン的に言えば、学園紛争前後に、父の蒸発[évaporation du père]あるいはエディプスの失墜[déclin de l'Œdipe ]が欧米先進国では起こっています。とすれば母親役がオキライな女性は結婚自体をおやめになったほうがいいか、アフリカあたりの父権的部族社会の男を探すべきです。おおむねオチンチンが硬くてデッカイから一石二鳥になることでしょう。







もっともアフリカといっても、若年からのコテカ(ペニスケース)常用習慣のある部族は見掛け倒しで、オチンチンの生育がひどく悪いという噂があるのでお気をつけを。