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2022年3月28日月曜日

「国際政治チャンネル」なる米国ネオコンとの同一化集団

 そうかあ、細谷雄一、篠田英朗、池内恵やらの国際政治チャンネルかあ



現在の日本言論界の諸悪の根源はこういった連中にあるんだろうよ、

そもそもウクライナロシア戦争を停戦させるためには「NATOの東方拡大を止めるから即時停戦を!」と、NATOの首脳が宣言することから始める他ないんじゃないか。あの「束になった=ファシスト化された」NATOに東方拡大の致命的誤謬を懺悔させることさ。


NATOの東方拡大は、冷戦後の全時代を通じて、アメリカの政策における最も致命的誤謬となるだろう。そのような決定は、おそらくロシアをナショナリズム的・反西洋的・軍事主義的傾向へと駆り立てうる[expanding NATO would be the most fateful error of American policy in the entire post-Cold War era. Such a decision may be expected to inflame the nationalistic, anti-Western and militaristic tendencies in Russian opinion;](ジョージ・ケナン「致命的誤謬」George F. Kennan, “A Fateful Error,” New York Times, 05 Feb 1997


篠田ボウヤをはじめとしてそんなことは毛ほども考えていないと判断せざるを得ない「国際政治チャンネル」なる酷薄集団だよ。


あのボク珍はもともと現場派だからウクライナロシア戦争を構造的視点から見ることにまったく向いてないんだろうよ。


実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)



連中はロシアヘイトの米国政治主体やNATOにひたすら同一化して、爆撃に苦しむウクライナの市民(とくに非戦闘員)、経済制裁で苦しむロシア市民は蔑ろにしちまってるんだろうよ、いま真に同一化するべきなのはこの市民なんだけどな、ーー《同情は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)

ま、要するにプーチンを消滅させる戦争がとっても好きなんだろうよ、ウクライナ市民を犠牲にしての「徹底抗戦」が。

こういう構造的「常識」もないようだしな、




あの連中のような「党派人」はこういった「国際安全保障リアリスト派重鎮」ミアシャイマーMearsheimerの観点でさえ「陰謀論」というのだろうがね、真の陰謀論とは通念となっているイデオロギー、あるいは権力者による共同謀議を懐疑して暴くことだよ、沈黙の陰謀[conspiracy of silence]ーー自分たちに不利なことに関して沈黙することを了解し合っていることーーという概念があるだろ



惑わされてはならない、偉大な精神は懐疑家である[große Geister sind Skeptiker]。〔・・・〕強さは、精神の力やありあまる力から生ずる自由は、懐疑によって証明される。


信念の人は、価値と無価値に関するすべての原則的なものにとっては、まったく問題外である。信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学eine strenge und notwendige Optik]をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。(ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)



パララックスゼロのNATOイデオロギーの奴隷学者たち。


以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性[Verstand]の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性[äußeren Vernunft] の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点[ Gesichtspunkte anderer] から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差[ starke Parallaxen](パララックス)を生じはするが、それは光学的欺瞞[ optischen Betrug ]を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)



米国やらNATOやらでオベンキョウして洗脳されて「信念の牢獄の人」になっちまってるんだろうな、「米国ネオコンとの同一化集団」と呼んでおくよ。


ああイケね、ウクライナのネオナチマインドがふつふつと湧いてくるや。せめてシュルレアリストマインド程度に押しとどめておきたいんだがなあ


最も単純なシュルレアリスト的行為は、リボルバー片手に街に飛び出し、無差別に群衆を撃ちまくる事だ。L'acte surréaliste le plus simple consiste, revolvers aux poings, à descendre dans la rue et à tirer au hasard, tant qu'on peut, dans la foule.(アンドレ・ブルトンAndré Breton, Second manifeste du surréalisme)



ネオナチシュルレアリストマインドを抑圧するには、どうしたらいいんだろ・・・やっぱりここでもニーチェの助けを借りないとな、ーー《君たちは、ただ憎むべき敵をのみもたねばならない。軽蔑すべき敵をもってはならない[Ihr dürft nur Feinde haben, die zu hassen sind, aber nicht Feinde zum Verachten] (ニーチェ『ツァラトゥストラ第1部』「戦争と戦士」1883年)



攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの生長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーーあるいは、どれほど手ごわい問題を、求めているかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいということではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。…敵と対等であることーーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない[Wo man verachtet, kann man nicht Krieg führen; wo man befiehlt, wo man etwas unter sich sieht, hat man nicht Krieg zu führen.](ニーチェ『この人を見よ』1888年)


ーーせいぜい健康のために嘲弄する連中に過ぎないからなあ、オイ!ーー《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。Der Einwand, der Seitensprung, das froehliche Misstrauen, die Spottlust sind Anzeichen der Gesundheit: alles Unbedingte gehoert in die Pathologie.》(ニーチェ『善悪の彼岸』154番、1886年)


はやいとこ、国際政治チャンネルなる党派を解散することだな、湿った瞳を交わし合い頷き合ってる「911世代の同窓会」をな、《だれもがひとりひとりみるとかなり賢くものわかりがよい。だが一緒になるとたちまち馬鹿になってしまう。Jeder, sieht man ihn einzeln, ist leidlich klug und verständig; Sind sie in corpore, gleich wird euch ein Dummkopf daraus.》(シラー『クセーニエン』ーーゲーテとの共著[Goethe und Schiller Xenien]1796年)

バカ化同窓会ってのは「構造的には」こういうことだよ。