小泉悠は「とっても愛すべき」キャラだと、私は感じていた。標準的学者における欧米規範に則った(中立を装いつつも)教えを上から垂れる「垂直的語り口」とは異なり、あなたにってのボクという「水平的語り口」の学者らしからぬキャラに魅せられた。
これは現代ラカン派が、旧套の「大他者の言説」(エディプス的父の言説)とは異なる「大兄弟の言説」とするのと相同性がある。欧米においても学園紛争を契機とした「父の失墜」により、「大他者の言説」から「大兄弟の言説」に移行しつつある傾向が顕著とはいえ、欧米は一神教国である。一神教エリアには日本のような多神教エリアとは異なり「父の残滓」がある程度居残っている。その意味で大兄弟の言説は日本的言説の典型的特徴とすることができる。
もともと日本語の構造自体が、「あなたにとっての私」の言語という指摘がある。
いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収) |
日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980) |
こういった観点は1970年代には頻繁に指摘されていたようだ、ーー《「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。》(森有正『経験と思想』1977年)
だがこの話はここでは深入りしないでおこう。「あなたにとっての私」にならないように文体を模索している作家たちがいることを指摘するだけにとどめておく。
ところでーー話を戻すがーー小泉悠はこんなことをサラッと言う人物でもあるのだ。
◼️ 『ロシア停戦のカギとロシア停戦のカギとは プーチンの誤算と不満 専門家が読み解く結末』 BSフジLIVE プライムニュース 2022年3月16日 |
小泉悠「自国が侵略を受けているとき、戦う以外に言うことがありますか。日本が侵略を受けた時、戦わないと言いますか。抵抗し、負けない期間を引き延ばし、停戦交渉で主権を守ることが繋がる。抵抗しなければ交渉が困難なことを、日本人も理解すべき」 ーー市民は降伏するべきでは? 小泉悠「市民が侵略に対し武装して戦うのがそんなにおかしいですか?ロシア軍は、既に民間を攻撃している訳です。一般市民が自国を守る為に戦い国を守るのは歴史的な例がある」 兼原信克「侵略者にすぐ降伏せよという日本の考え方は世界的に特殊なんです」 |
以前にも引用したことがあるが、私はこれを読んで「悪い空気」を嗅いだ。これは小泉悠をたんに「愛すべきキャラ」ですましておくことができないな、と感じ始めた。 「世に倦む日々」ブログの書き手ーーたぶん田中宏和さんというのだろうーーが、私以上にそれを強烈に感じ取っている。 |
少し前から、小泉悠あたりの発言で、一人一人の命よりももっと大切なものがある、国家の主権と独立を失うことは国民の命を失うことよりも重大で、どれほど犠牲を出しても最後まで戦って守り抜かねばならないものだという主張が連発されている。安倍内閣で国家安全保障局次長をやった兼原信克が、3/16のプライムニュースの席で小泉悠の発言に相槌を打ち、「そんなこと当たり前の話ですよ」と念を押していた。この問題が非常に気になる。とても気に障るけれど、焦点を当てて問題提起している声がほとんどない。〔・・・〕 |
テレビがウクライナ戦争のプロパガンダの刷り込みで充満・沸騰し、プーチンとロシアを憎悪して共振共鳴する熱狂空間となり、その中央演壇でコンダクターを務めている小泉悠の言葉だから、誰もそれに異を唱えず、小泉悠の恐ろしい軍国主義のイデオロギーの発信に頷いている。戦前戦中の「一億火の玉の皇国皇民」擬(もど)きな主張が、軍事ジャーナリストの解説に紛れて一般論化され、放送法が前提する「公正中立」の衣を着た洗脳メッセージに化けている。憲法9条と真逆の思想がシャワーされている。皆、それに抵抗せず黙っている。 |
嘗ては、その言論を石原慎太郎が吐き、櫻井よしこと小林よしのりが言っていた。明確に右翼の立場から、異端で極論の位置づけで、それが国民に訴えられていた。今ではすっかり変わり、イデオロギーとは無縁な風貌のテクニカルな領域の専門家が、公然とこの猛毒の主張を発している。そこが恐ろしい。石原慎太郎は作家だった。櫻井よしこは極右のジャーナリストだ。小泉悠には特にグロテスクな右翼表象はなく、技術屋のキャラクターが標榜されている。表現にも過激な熱量がない。熱がないのに、戦慄する軍国主義の説教を淡々と垂れている。 |
国家が戦争を始めたときは、国民は国家を守るために団結して戦って死ぬのが当然で、その生き方を選ぶのが正しいと言っている。個人個人のプライベートな人生を楽しむ価値よりも、所属する国家共同体を守護し防衛することの方が意義が重く、生き方として後者が尊重されるべきだという主張。戦争を是認し、戦争への国民の積極参加と国家への犠牲を当然視する言説。それが、中立的な立場の論者から、すなわち、後で世論調査してその主張が賛成多数となるような設定で、公然と議論されるのは、今回が初めてのような気がする。(「小泉悠の軍国主義の説教 – 反戦気分は広がらず好戦気分ばかり高まる」世に倦む日々、2022/3/22) |
《テレビがウクライナ戦争のプロパガンダの刷り込みで充満・沸騰し、プーチンとロシアを憎悪して共振共鳴する熱狂空間となり、その中央演壇でコンダクターを務めている小泉悠の言葉》、《誰もそれに異を唱えず、小泉悠の恐ろしい軍国主義のイデオロギーの発信に頷いている》、それは《「公正中立」の衣を着た洗脳メッセージに化けている》とある。あるいは《イデオロギーとは無縁な風貌のテクニカルな領域の専門家が、公然とこの猛毒の主張を発している》。さらには《小泉悠には特にグロテスクな右翼表象はなく、技術屋のキャラクターが標榜されている。表現にも過激な熱量がない。熱がないのに、戦慄する軍国主義の説教を淡々と垂れている》
実に巧みな表現の仕方である。とはいえ私はここまで言い切っていいのかわからない。だが私が感じ始めた「小泉悠の不快感」をーー仮に強度を以て表現すればーー似たようなものになりうる。このように感じるか否かは世代的相違もあるだろう、「世に倦む日々」の書き手と私はおそらく同じ世代に属している。
繰り返そう、小泉悠の口から「自国が侵略を受けているとき、戦う以外に言うことがありますか」等々の軍国的イデオロギーが大兄弟の言説で語られて多くの人が湿った瞳を交わし合い頷き合っているのである。私はこれがひどく不快である。
1990年前後にしばしば指摘されていた言い方なら、小泉悠の言説は共感の共同体の言説と言い換えうる。この言説は、アンチエディプス的な「不可視の牢獄」の言説、「いつのまにかそう成る」(生成)という空気を読む言説、家父長的権力のモデルとは異なる母性的な日本的権力構造の言説である。 |
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公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それはむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年) |
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思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統い御するような権力が成立したことがなかった。〔・・・〕あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。〔・・・〕日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。〔・・・〕 見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。 日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年) |
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柄谷はこの文の少し前に《ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている》とも言っているが、これが母性的な日本的権力構造である。ファシズムの原義は束である。日本的権力構造の言説は家父長的権力よりもいっそうファシスト化しやすい(家父長には反抗できるが「いつのまにかそう成る」空気には反抗しがたい)。 |
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似たような指摘はこの二人以前に(私の知る限りでも)丸山真男や加藤周一によってなされており[参照]、例えばたこつぼ社会、ムラ社会である。 私が不思議でならないのは、1970年前後生まれの主流国際政治学者たちの殆どが、小泉悠を担ぎ上げるばかりで、この日本的言説に対する古典的な批判にまったく不感症のように見えることである。日本を代表した政治学者丸山真男の日本文化批判の核のひとつである筈なのに。 現代の中堅政治学者らに対する似たような強い違和感は、今年81歳になられる元外交官浅井基文氏も、《一定の肯定的評価を得ている学者、研究者、ジャーナリストまでが一方的な非難・批判の側に組みする姿を見て、私は日本の政治・社会の根深い病理を改めて思い知らされました》という表現の仕方で指摘している(蛇足だが、浅井さんのブログには丸山真男の膨大な引用集がある)。 以下、いくらか長く引用しよう。
あれら1970年前後生まれた主流国際政治学者たちは自分たちの態度を新しいと思っているのかもしれない。だが私に言わせれば「おみこしの熱狂と無責任」にしか見えず、連中は戦前の知識人の姿に回帰しているのではないかと強く疑いたくなる。
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