むかし池内紀がこう言ってたけどさ。
池内紀)去年だったかな。『朝日新聞』の書評委員会で、書名をずっと読み上げるでしょう。それで『社会学は何ができるか』という書名が読み上げられたとき、須賀さんがはっきり通る声で、すぐ合いの手を入れた。「何もできない」って(笑)。ぼくもずっとそう思っていたんだけれども勇気がなかったからいえなかった。前に社会学の先生が二人おられたし……(笑)(『追悼特集 須賀敦子』河出書房新社、1998年) |
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今回のロシアウクライナ戦争でわかったのは、軍事オタクの専門家の戦況分析はとっても役に立ったということだ。分野外の弱さはヒドクあるにしろ。とくにいわゆる哲学的な問いにはキャベツ頭であるにしろ。ーー《ショーペンハウアーによれば、死の問題はあらゆる哲学の入口に立っている。Das Todesproblem steht nach Schopenhauer am Eingang jeder Philosophie》(フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)
彼らが戦争における生死を問う能力としては多摩川の二軍選手であったとしても、軍事オタクとして後楽園のマウンドに立ったのはバカにしちゃいけない。
蓮實)知識も基礎学力もない人たちが、こうまで簡単に批評家になれるとはどういうことですかね。最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。要するに芸がなくてもやっていけるわけで、こういう人たちが変な自信をまでもっちゃった。(柄谷行人ー蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年) |
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とくに小泉悠ってのは芸がないどころではなく、落語で鍛えたらしい話芸があってとっても感心しちゃったね。ウクライナのネオナチ問題に口を封印して語り続けたのもこの際許容してしまうぐらい。
とはいえーー小泉悠の言説を全部追っているわけではまったくないがーー、田中均が昨晩YouTubeで言ってるような観点が彼にはほとんど無いという印象を受けているのだが、もしそうであるなら彼をユルシチャイケナイ➡︎「ウクライナの戦争を止めるために米国が果たすべき役割【田中均の国際政治塾】。
この田中均が言っていることは、少し前記したが「キミたちは爆撃に苦しむウクライナ市民(とくに非戦闘員)に同一化しているかい?」ということだ。ーー《同情は同一化によって生まれる [das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)
で、問題はより総体的観点があるべき国際政治学者たちだよ。とくに池内紀の息子さん界隈だな。恵チャンにはイスラム国の話題が賑わったときにその冷徹な分析に感心したんだけど、今回は彼を始めとしてあの界隈の国際政治学者たちは「何もできない」と言うより他ないな、まったく役立たずだ。橋下徹発言のたぐいにひたすらヒステリーを起こしている「はしたない集団」という他ない。
それに比べ、例えばあまり名が知られていないだろうKan Nishida のような人のツイートは実に感心するね、次のものは、1から40まである「昨晩の一連のツイート」だけど、こういうことをわずかでもできる人材はまったくいないんだな、あの国際政治学者たちのなかには。スカスカ頭の気合い系ばかりだ。せいぜい通俗道学者のようなことしか言っていない、《通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…]〔・・・〕完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen ]》(ニーチェ『この人を見よ』)
たぶんあの国際政治学者の連中には経済的知が全然ないんだろうな、それがなくて総合分析ができるわけないんだけど。
政治的なるものの位置づけ。 政治は経済、学問、芸術のような固有の「事柄」をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は「政界」における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断するにとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である。(丸山真男「対話」昭三六) |
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ここで丸山真男が「政治」という語で言わんとしていることは、ウィトゲンシュタインのいう「哲学」に限りなく近いだろうな。
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政治とは、まずは丸山真男の観点でいいのであり、マルクスが言ったように経済がすべてを決定する底部構造だとは言うつもりはないが、この「経済」がスカスカの政治学者はゼロだよ。経済知なしで政治が語れると思い込んでいる政治学者は鍋底を這う蛆虫にすぎない。
人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係の総体が、社会の経済的構造[die ökonomische Struktur der Gesellschaft]を形成する。これがリアルな土台[die reale Basis]であり、その上に一つの法的政治的上部構造[juristischer und politischer Überbau]がそびえたち、この土台に一定の社会的意識諸形態が対応する。物質的生活の生産様式[Die Produktionsweise des materiellen Lebens ]が、社会的・政治的および心的な生活過程一般[sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt.]の条件を与える。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する[Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt. ](マルクス『経済学批判』「序言」1859年) |
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マルクス主義のすぐれたところは、歴史の理解の仕方とそれにもとづいた未来の予言にあるのではなく、人間の経済的諸関係が知的、倫理的、芸術的な考え方に及ぼす避けがたい影響を、切れ味鋭く立証したところにある[Die Stärke des Marxismus liegt offenbar nicht in seiner Auffassung der Geschichte und der darauf gegründeten Vorhersage der Zukunft, sondern in dem scharfsinnigen Nachweis des zwingenden Einflusses, den die ökonomischen Verhältnisse der Menschen auf ihre intellektuellen, ethischen und künstlerischen Einstellungen haben]。 これによって、それまではほとんど完璧に見誤られていた一連の因果関係と依存関係が暴き出されることになった。 |
しかしながら、 経済的動機が社会における人間の行動を決定する唯一のものだとまで極論されると、われわれとしては、受け入れることができなくなる[Aber man kann nicht annehmen, daß die ökonomischen Motive die einzigen sind, die das Verhalten der Menschen in der Gesellschaft bestimmen. ]〔・・・〕 そもそも理解できないのは、生きて動く人間の反応が問題になる場合に、どうして心理的ファクター[psychologische Faktoren]を無視してよいわけがあろうかという点である。(フロイト「続精神分析入門」第35講、1933年) |
あの1970年代前後生まれの世代の政治学者たちはマルクスなしで済むと勘違いしてしまった連中なのだろうよ。冷戦終了期に学び始めた人たちだから。ーー《マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できない。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらだ。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することだ。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければならない。》(ドゥルーズ「思い出すこと」インタビュー1993年)ーー。ま、あの不幸な世代の学者たちに対して「同情」しないわけではないがね(ここでの同情は「憐れみ」ということだが)。
二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。 これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」1997年『アリアドネからの糸』所収) |
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フロイトにおける下部構造というのは結局、身体(欲動の身体)のことであり、それが上部構造を決定するのは当たり前。
エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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マルクスの下部構造「経済」も「メシ」に翻訳すれば、最終的にはそれがすべてを決定するのは当たり前であり、要は「背に腹は変えられない」ってことだ。