前々回の末尾に示したたラカンマテームを使ったボロメオの環図の私にとっての出発点は、2006年に上梓されたジジェクの『ラカンはこう読め』からだよ。
以下、簡単にその意味するところを示そう。
ジジェクは1980年代後半、ジャック=アラン・ミレールのセミネールに数年出席しており、少なくともある時期までのジジェクのラカンはミレールのラカンである、ーー《私はきわめて率直に言わなければならない、私のラカンはミレールのラカンだと。I must say this quite openly that my Lacan is Miller's Lacan》(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)。2010年前後から独自路線を目指して、ミレールにジジェクなるパンドラの箱を閉じなければならないと言われてしまったのだが。
フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我、自我理想、超自我である。Freud uses three distinct terms for the agency that propels the subject to act ethically: he speaks of ideal ego (Idealich), ego-ideal (Ich-Ideal) and superego (Ueberich). 〔・・・〕 この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう〈小文字の他者〉であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、〈大他者〉の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級である。 |
The underlying structuring principle of these three terms is clearly Lacan’s triad Imaginary-Symbolic-Real: ideal ego is imaginary, what Lacan calls the “small other,” the idealized double-image of my ego; Ego-Ideal is symbolic, the point of my symbolic identification, the point in the big Other from which I observe (and judge) myself; superego is real, the cruel and insatiable agency which bombards me with impossible demands and which mocks my failed attempts to meet them(ジジェク『ラカンはこう読め』2006年) |
とはいえ、このジジェクの記述は、後年のラカンあるいは1990年以降のミレールに準拠すれば、いくらか粗いところがある。でもラカン啓蒙書としてはまずこれでよろしい。
上のジジェクをそのままボロメオの環に置けば次の通り。
このジジェク版ボロメオの環をより厳密に示せばーーこれはラカン派プロパでも示している人に行き当たったことはないがーー、次のようにおける。
ま、これは「蚊居肢版ボロメオの環」としておいてもよいが、仏の主流ラカン派といっても頭のカタイ奴がほとんどだから、連中はここまでまだ明示化してないだけである・・・
で、これが冒頭に示したラカンマテームを使ったボロメオ図の日本語版だ。マテーム版を再掲しておこう。
そして母なる超自我は代替不能だが、父なる超自我つまり自我理想としての憲法九条はべつのものに変更しうる。もっとも憲法九条に天皇制の瘢痕がしっかりと染み付いている限りではーー、例えば、戦前の無責任体制の象徴としての天皇制、そのトラウマ的記憶の刻印が日本人の心に刻み込まれ続けていれば、天皇制に対する防衛としての憲法九条も変え難い。柄谷の論を肯定的にとれば、彼は本来こういうことが言いたかった筈ではないだろうか。
さて最後に話を戻してラカン自身によるボロメオの環の正式版を示しておこう。
ここではモノChoseについてのみ、その意味を示しておく。
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding. ](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
母は、その基底において、「原現実界の名」であり、「原穴の名 」である[Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou] (Colette Soler, Humanisation ? ,2014) |
ーー《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».]》(Lacan, S21, 19 Février 1974) ーー《享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel.]》(Lacan, S23, 10 Février 1976) |
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。〔・・・〕フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009 |
※なお、フロイト自身の記述は「自我エス超自我の関係」を参照。